2019年5月26日 ルカ福音書21章1-4節「孤独を癒すイエス」

  • 投稿カテゴリー:全て / ルカ書

 東日本大震災から9年、仮設住宅で、誰にも看取られず亡くなって逝く人が多いと言われます。所謂、孤独死です。なんとか支援できないかと行政や市民のNPOが必死に活動をされているそうです。マザー・テレサは生前孤独死を知り、路上で死にそうになっている人を連れてきて最後を看取るための施設「死を待つ人々の家」を始めました。「あなたは一人ではありません。あなたは必要とされたので生まれてきたのです」と寄り添い、生まれてきてよかった、人生には意味があったと思えるようになり、人間らしく死を迎えるよう援助しました。孤独から救われるには、どのような術があるのか。信仰は孤独に対してどのような意味をもつのかを考えたいと思います。
与えられたテキストは「やもめの献金」です。金持ちたちが賽銭箱に献金を入れるのと貧しいやもめがレプトン銅貨二枚を入れるのを見て、「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れたと言われた」という話です。このテキストはいろいろところで、例えば、献金の奨励や模範として語られてきました。しかし、道徳的、倫理的な読み方では十分ではなく、別のメッセージがあると思います。
このテキストの置かれた文脈を見ます。イエスはただ一人十字架に向かって歩み、孤独に苦しんでいました。イエスの側にいるはずの弟子たちは、イエスの十字架を理解できず、イエスを捨てようと考えていました。その事実を知るイエスはいっそう孤独を感じていました。
 20章46節には、「民衆が皆聞いているとき、イエスは弟子たちに言われた。『律法学者に気をつけなさい』」とあります。律法学者たちはイエスをなんとかして殺そうと、ヘロデ派の人々と相談していました。律法学者だけではありません。祭司長たちも、サンヘドリンの議員も、民衆もイエスを拒否し、冷たい批判の目を向けました。誰一人イエスを理解しようとする者はいませんでした。イエスはたった一人でピラトやサンヘドリの議員の前で裁判を受け、十字架につけられました。イエスは絶対孤独を経験され、戦われたのです。そのような厳しい状況の中で、イエスの孤独を慰めたのが、レプトン銅貨二枚を捧げた貧しいやもめです。このテキストはイエスの孤独の癒しの物語であると思います。言い換えれば、イエスが貧しいやもめの孤独を癒したのではなく、貧しいやもめがイエスの孤独を癒した物語であると思います。
この貧しいやもめの何がイエスの孤独を癒すことができたのでしょう?4節に「あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、欠しい中から持っている生活費全部を入れたからである」とあります。この「入れる」という言葉は「神の御手の中に入る」と言う意味があります。意訳するならば、「神の中へ入った」となります。
ルカ福音書5章5節に「シモンは、『先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう』と答えた。そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった」とあります。この「お言葉ですから」が「神の中に入る」という意味です。言い換えれば、「自分が依って立つ場所を代える」という意味です。長年経験し、得てきたてきた知恵・知識に立つのではなく、神の言葉の上に立つことを意味します。言い換えれば、「神の中へ入っていく」です。「生活費全部」と訳されている言葉は「命、存在全体」という意味です。自分の存在全体を神の御手の中に入れるというのです。言い換えれば、貧しいやもめは自分の命と存在全体を神に献げ、ゆだねたということになります。つまり、イエスは、神にすべてをゆだねた貧しいやもめに出会い、孤独を慰められたのではないでしょうか。イエスは十字架を目指し、孤独な歩みをされ、エルサレムに入城しました。そこで全存在をゆだねる貧しいやもめと出会い、孤独を癒されたのではないでしょうか。ここにすべてを神にゆだねて十字架に死なれるイエスとすべてを神にゆだねる貧しいやもめの姿が重なります。
 この先、22章39節以下で、イエスはオリーブ山で十字架を前に祈りを捧げます。42節に「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」とあります。イエスは御心のままになさってくださいと、自らを神にゆだね、十字架に向かいました。イエスに決定的な影響を与えたのがこの貧しいやもめです。イエスは、この貧しいやもめの姿にご自分を合わせ、御自分を神にゆだねられ、絶対孤独を乗り越えていかれたのではないでしょうか。
 マザー・テレサは「今日の最大の病気は、ライでも結核でもなく、自分がいてもいなくてもいい、だれもかまってくれない、皆見捨てられていると感じることである」と言っています。今日誰もが孤独の苦悩の中に置かれています。だからこそ、私たちは、すべてをゆだねた貧しいやもめに出会い、さらに、孤独と戦われたイエスに出会い、孤独を癒されていきたいと思います。ヘブライ人への手紙2章17節に「イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです」とあります。イエスは十字架の孤独と苦しみを経験されました。だから、孤独に苦しむ者を救い、寄り添う力を持っておられます。詩編55編23節に「あなたの重荷を主にゆだねよ。主はあなたを支えてくださる」とあります。重荷を主イエスにゆだね、孤独に打ち克ち癒やされていきたいと思います。