2019年5月5日 ルカ福音書19章45-48節 「わが家は祈りの家」

 今日のテキストはイエスがエルサレムに入った時のことが記されています。イエスがエルサレムに入ってみると驚きました。エルサレム神殿の境内で行われていたことは本来の宗教的な働きではなく、商売やお金儲けでした。それを見てイエスは、激しく怒り、ムチを振るって彼らを追い出し、「わたしの家は祈り家でなければならない」と言われました。この物語を一言で言えば、「祈りの回復物語」です。祈りがなければ、人間の本来の在り方、生き方を失っていく。その意味では、人の存在の根底には、祈りがなければならない。祈りは人が生きていく時の心の糧であるというのです。
 マルコ福音書9章に、汚れた霊に取りつかれた息子が癒やされる物語があります。息子は父親に激しく反抗し、時には狂ったように暴れる。それだけでは納まらないで、自分の身体を傷つけるのです。父親はどうすることもできずに苦しんでいました。多くの医者に診てもらいましたが、よくなりません。父親は全財産を使い果たしてしまい、イエスの弟子たちのところに助けを求めてきました。しかし、弟子たちは助けることができませんでした。困り果てた父親はイエスのところに助けを求めて来ました。不思議なことですが、イエスが手をとって起こされると、息子は正気を取り戻し、立ち上がったというのです。
弟子たちはその様子を見て、「なぜ、わたしたちはあの悪霊を追い出せなかったのでしょうか」とイエスに尋ねました。イエスは、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ。」と答えたといいます。「この種のものは」の「種」とは「たぐい、並ぶもの」という意味です。つまり、子育て、教育、人間の成長、人の救済など、それら全てを意味します。それらは祈りがなければできないというのです。この種のもの根本、土台は祈りだというのです。
 日野原重明先生は生前に「今日在るのは、幼い時、少年時代の両親の祈りのお陰である」と言っておられます。日野原先生は、ご両親がいつも見えないところで、先生の成長のために祈っておられた。その両親の祈りに支えられ、生かされてきたというのです。祈りは、人間の全ての事柄に先立つと言われます。子育ては勿論、人間の教育も、成長も、全てのことは祈りがなければ成り立つことはできないというのです。
ルカ福音書の編集を見ると、「わたしの家は、祈りの家でなければならない」というイエスの祈りの教えは、二つの祈りの教えに挟まれています。一つは、18章9以下の「徴税人の祈りとファリサイの祈り」です。ファリサイ派の人々は、「神様、わたしは他の人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します」と祈りました。徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら「神様、罪人の私を憐れんでください」と祈りました。義とされて家に帰ったのは、罪人を憐れんでくださいと祈った徴税人だ、とイエスは言われました。もう一つは、この先の23章34節の「イエスの十字架の上での祈り」です。イエスは自分を十字架につけた兵士たちのために「父よ、彼らをお許しください。自分が何をしているのか分からないのです」と祈りました。この二つの祈りの間に、「わたしの家は、祈りの家でなければならない」という言葉が置かれています。つまり、祈りはわたしたちの全ての業の根底にある事実を言おうとしているのです。祈りは人間の願いや求めから起こります。しかし、それだけではありません。その願いは清められ、正しく導かれなければならないのです。祈りは自分の罪に気づかされ、罪の許しを願い、許されることです。祈りは自分のことを神に願い訴えるだけでなく、逆に神に御旨を聴くことであると言われます。
 ニューヨーク大学の壁に掲げられていると言われる祈りを紹介します。
「大きな業績を残そうとして、力を与えてほしいと神に求めたら、つつしみ深く従順であるようにと、弱さを授かった。偉大なことができるようにと、健康を求めたのに、良き事ができるようにと、病弱を与えられた。幸せになろうとして、お金を求めたのに、賢明であるようにと、貧困を授かった。世の人々の賞賛を得ようとして、権力を求めたのに、神の前にひざまずくようにと、弱さを授かった。人生を享楽しようと、あらゆる物を求めたのに、あらゆることを喜べるようにと、生命を授かった。求めたものは一つとして与えられなかったが、願いはすべて聞き届けられた。神の意にそわぬ者であるにもかかわらず、心の中に言い表せない祈りは、すべてかなえられた。わたしはあらゆる人生の中で、祝福されたのだ。」。祈りは単なる求め、願いではなく、自分の罪を認識し、赦しを請い、神の御旨を尋ねていく。神の言葉に聴くことであるというのです。
 俳優の吉行和子さんの書かれた文章を紹介します。吉行さんはキリスト教主義学校の女子学院で学ばれ卒業されました。吉行さんは「わたしの母アグリから教えられたことは、どんなに辛いことがあっても、例えば人に裏切られるようなことがあっても、人間不信にならないように。どんなことがあっても絶望したり、投げ槍になったり、仕方がないと諦めたりしないように祈りなさいと教えられた」と記しています。世の中は私たちを絶望させ、空しい思いにさせられることで満ちています。しかし、そういう中で厭世的にならないで、人間不信に陥らないで、積極的に、肯定的に、今の自分を良しとし、他者を認め受け入れていく。そのためには祈りがなくてはならないというのです。詩編86編7節に「苦難の襲うときわたしが呼び求めれば、あなたは必ず答えてくださるでしょう」とあります。神は祈りに必ず答えてくださる。その事実を信じて、受け入れて前進していきたいと思います。