出エジプト記20章3節に「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたは、わたしをおいてほかの神があってはならない。あなたはいかなる像も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である」とあります。ヤーウェの神が自らを明らかにしています。この「熱情の神」の「熱情」は、口語訳では「妬み」となっていますが、「情熱、一心、一途」という意味です。ヤーウェの神は熱情の神ですから一心に、一途にイスラエルを愛しました。同時に、イスラエルに、一心に、一途に神を愛し、応えることを求めるというのです。
マタイ福音書7章7節に「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つける」とあります。「求める」は「求め続ける」、「与える」は「応える、叶える」という意味です。ヤーウェの神は熱情の神であるから、一途に、一心に願い求め続けなさい。神は必ず応えてくださるというのです。ヨハネ黙示録3章15節に「あなたは、冷たくも熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている」とあります。「あなたは、わたしをおいてほかの神があってはならない」とありますように、ヤーウェの神は熱情の神ですから、わたしたちにも熱情的に、一心に、一途に神を愛することを求められているというのです。
与えられたテキストはヨシュア記17章1-6節です。4節に「彼女たちは、祭司エルアザル、ヌンの子ヨシュア、および指導者たちの前に進み出て、『主はわたしたちにも親族の間に嗣業の土地を与えるように、既にモーセに命じておられます』と申し立てた。彼女たちは、主の命令に従い、父の兄弟たちの間に嗣業の土地が与えられた」とあります。ヨセフの家系に属するツェロフハドには息子がなく、娘だけであった。その娘たちが受け継ぐべき土地を与えられるために、ヨシュアに願い出ると、嗣業の土地が与えられたというのです。この「申し立てる」は「執拗に願う、一心に願う」と言う意味です。当時、男性中心の社会で、女性に嗣業が与えられることは禁止されていました。しかし、彼女たちが執拗に、一心に熱情をもって願い出たがゆえに、嗣業の土地が与えられたというのです。
ルカ福音書11章には、「夜中にパンを借りに来た友だち」の物語があります。ある人のところに、友人が夜中にパンを求めて訪ねてきました。生憎パンがありませんでした。そこで、彼は、近くの友達のところに、パンを借りに行きました。しかし、その友達は、「面倒をかけないでくれ。もう戸を閉めてしまったし、子供たちも一緒に寝床に入っている。わざわざ起きることはできない。しかし、よく聞きなさい、友達だからというのでは、起きて与えないが、余りにあつかましく、しつっこく言うので、起きて必要なだけ与える」と言って、わざわざ起きて、パンを貸してくれたというのです。本文では、「余りにもあつかましく、しつっこく言うので」が文頭にあり、強調されています。「あつかましく、しっこい」は、ギリシャ語では「アナイディア」と言い、「厚顔無恥」という意味です。「厚顔無恥、あつかましい、形振り構わず」は、一般的には、良くない否定的なことですが、イエスの信仰では、大事な意味をもっています。ツェロフハドの娘たちは、あつかましいほどに熱情的に、はばかることなく、執拗に願い求めたので、律法で禁止されていた嗣業の土地が与えられたというのです。
娘たちの一途さ、一心さを讃えています。
14-18節は「ヨセフの一族の開拓地」の物語が記されています。ヨセフの子らが、ヨシュアに、「わたしの民は大きくなったのに、ただ、一つの嗣業の土地しか、与えられないのはどういうことか」と不満をもらしました。すると、ヨシュアは、「あなたの民が多くて、エフライムの山地が手狭なら、森林地帯に入って行き、ペリシテ人やレファイム人の地域を開拓するがよい」と答えました。すると、彼らは、「山地だけでは足りない。平野が欲しい。だけど、平野は鉄の戦車をもっているカナン人がいるから、どうにもならない」と訴えました。すると、ヨシュアは、「山地は森林だが、開拓してことごとく自分のものにするがよい。カナン人は鉄の戦車を持っていて、強いかもしれないが、きっと追い出すことができよう」と言いました。「どうにもならない」と悲観的、消極的になっているヨセフの子らに、ヨシュアは「自分の力で開拓して、自分のものにしなさい」と言うのです。この物語は、「信仰をもつということがどういうことであるか」を言い表していると思います。信仰はすべてを神に任せ、人間の努力はいらないとは言いません。イザヤ書41章10節に「恐れることはない。わたしはあなたと共にいる神」とありますように、神が共にいて、共に働いていることを信じることが信仰です。言い換えれば、どのような状況に置かれても、全力を尽くして、後は神に委ねるということです。
ヨシュアは、「カナン人は鉄の戦車を持っています。わたしたちの力ではどうすることもできません」と、悲観的、消極的になっているヨセフの子らは「カナン人は鉄の戦車を持っていて、強いかもしれないが、きっと追い出すことができよう」と言います。この「きっと追い出すことができよう」は未来の約束形です。つまり、「必ず追い出すことができる」となります。ヨシュアは、悲観的、消極的な彼らが積極的、肯定的に未来の世界に挑んでいくことを求めているのです。今まで働き導いて下さった神が、将来も生き働いてくださる。願うことは将来必ず叶えられるというのです。その御言葉を信じて従っていきたいと思います。