2019年8月18日フィリピの信徒への手紙1章3-11節 「いつも喜びをもって」

 与えられたテキストはフィリピの信徒への手紙1章3-11節です。パウロの感謝と祈りの言葉です。4節に「あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています」ありますが、原文を直訳すると、「いつも喜びをもって、祈っています。あなたがた一同のために祈る度に」となります。「喜ぶ」を文頭に置くことで「いつも喜ぶ」ことを強調しています。この「喜ぶ」は、ギリシャ語で「カラ」と言いますが、適当な翻訳の言葉が見つかりません。漢字の「喜ぶ」は「めでたいこと、幸せなことがあって喜ぶ、うれしい気持ち」という意味です。しかし、ギリシャ語の「カラ・喜ぶ」は、ローマの信徒への手紙5章3節に「それだけでなく、艱難をも喜んでいます」(口語訳)とありまするように、「めでたいことがなくても喜ぶ」という意味です。逆説的ですが、喜ぶこのとのできない時の喜び、信仰から湧き上がる喜び、神からの喜びを意味します。
 パウロは今、捕らえられ獄に繋がれています。初めは多少の自由がありました。しかし、この手紙を書いている時は地下牢に幽閉され、極刑は免れない極限状況に置かれていました。刑務所の医務官の経験のある作家加賀乙彦さんは、「極刑囚は死の恐怖と不安から、殆ど皆、心身の異常反応を起こす」と述べています。拘禁状態おかれたパウロも、心身に異常を来たらしても、不思議ではありません。しかし、パウロは、驚いたことに、「いつも喜びをもって祈っている。神に感謝している」というのです。
 5節に「それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです」とあります。原文には、文頭にギリシャ語で「エピ」という「なぜなら」という理由を示す前置詞があります。意訳すると、「なぜなら、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです」となります。「あなたがたが最初の日」は、使徒言行録16章11節以下に記されているように、パウロが初めてフィリピに入り、川岸の祈りの場所で礼拝をしていると、その礼拝に加わったリディアという布の行商の婦人が福音を受け入れ、バプテスマをけた日のことを意味します。具体的には50年頃のことです。「今日まで」は、パウロがローマの獄に捕らえられている日を意味します。62,3年のことです。その間、フィリピ教会の人々は終始一貫、変わらない信仰を持ち続けていました。その事実を喜んでいるというのです。終始一貫と言いますが、フィリピ教会の置かれた環境を考えれば、並大抵のことではありません。フィリピはローマ帝国の最大の植民地で、ローマ帝国と特別な関係にあり、ローマの宗教、文化、習慣を誇り、キリスト教は無知で、愚かな弱者の宗教と蔑視していました。フィリピ教会の人々は、反キリスト教社会の中で、信仰を保持し、福音を伝道したのです。それは戦いであり試練でありました。3章8節には「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています」とあります。キリストの福音はパウロの命だというのです。フィリピ教会の人々は、獄中のパウロに命と希望を与えました。パウロは感謝し、喜ばずにはいられないと言うのです。
「あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっている」の「あずかる」は、ギリシャ語で「コイノニア」と言い、「交わる、結びつく、繋がる」、「福音」は「イエス・キリスト」を意味します、意訳すると、「あなたがたはイエス・キリストと交わっている、繋がっているからです」となります。船本弘毅先生に「水平から垂直へ」という説教集があります。「水平」は「人と人との交わり、横の交わり」、「垂直」は「神、キリスト・イエスとの交わり、縦の交わり」を意味します。先生は「信仰は水平、横の交わりから、垂直の交わり、キリストの交わりを求めていく作業である。イエス・キリストの交わり、繋がりがより本質的である」と述べています。パウロはフィリピの教会から、金銭、物資の援助を受け、それに感謝しています。しかし、それ以上に、フィリピ教会の人々が、キリストに結びついて、垂直の交わりを本質にして生きている。その信仰に喜んでいるというのです。
 6節に「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています」とあります。この「確信する」は「信じている、信頼する」という意味です。何を信頼するか。それは、善い業を始めた神、キリスト・イエスの日に善い業を完成させる神です。パウロはきのうも、今日も、明日も、永遠に変わらない神を信頼し、全てをゆだねているというのです。
 フィリピの教会が生まれたのは、パウロの伝道と働きによってです。パウロの働きがなければ、フィリピの教会は生まれませんでした。しかし、パウロは「神が善い業を始めた」と言っています。そして、神は善い業を「完成してくださる」と言います。つまり、真実の神であるから、終末まで全責任を負ってくださるというのです。どのような事があっても、途中で見捨てることはない。将来、未来に、希望があるというのです。この「確信する」は「ゆだねる」という意味もあります。真実な神にゆだね切って生きる。神にゆだねるから、いつも喜びと感謝が、将来に、未来に向かって、生きる望みがあるといいます。詩編55編23節に「あなたの重荷を主にゆだねよ、主はあなたを支えてくださる。主は従う者を支え、とこしえに動揺しないように計らってくださる」とあります。他の何ものでもない、真実な神につながって、ゆだねて、与えられた道を歩みたいと思います。