2019年8月4日 ヨシュア記17章7-13節 「共存と共生を求めて」

 今日のテキストには、イスラエルのマナセ族のカナン侵攻の次第が記されています。現代では他国の侵略・侵攻は許されませんが、古代社会ですから、イスラエルはカナンに侵略し、カナン人を虐殺し、土地を奪い取り、領地を得ていきました。しかし、マナセ族は違っていました。先住民であるカナン人を略奪、虐殺することをしませんでした。
13節には、「イスラエルの人々は強くなってからも、カナン人を強制労働に従事させただけで、徹底的に追い出すことはできなかった」とあります。「強制労働に従事させる」は「使役する」という意味です。「追い出すことはできなかった」は「追い払うことはしなかった」と訳すことができます。口語訳聖書は、「しかし、イスラエルの人々が強くなるにしたがって、カナンびとを使役するようになり、ことごとく追い払うことはしなかった」と訳しています。意訳すると、「イスラエルは強くなったが、カナン人を追い払い、絶滅しないで、使用人にした」となります。つまり、マナセ族はカナン人と共に生きる共存・共生の道を選んだというのです。
なぜマサセ族はカナン人を虐殺することなく、共存と共生を選んだのか?それはマナセ族の信仰です。イスラエルは40年間定住地を得られず、辛い苦しい荒れ野の旅を経験しました。その苦難の旅を思い起こし、カナン人に自分たちと同じ運命を負わせることはできないと思ったのです。コリントの信徒への手紙Ⅱ1章4節に「神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます」とあります。マナセ族も40年の不条理な苦難によって他者を思いやる優しさを持つことができたというのです。
 太宰治が「優しい」という言葉を解釈して、「優しいという字は‘人が憂える‘と書く、だから優しい人は、憂いをもったことのある人、あるいは今、憂いをもっている人のことである。人は自分自身が辛い苦しい体験を経て初めて優しくできる」と言っています。これは一面の真理を語っているのではないでしょうか。苦難は人を孤独にし、絶望させ、頑なにします。しかし、神の慰めの苦難によって、人を思いやる優しさを持つことができるというのです。
 吉田兼好は「友にするに相応しくない者」として、「高く、やんごとなき人、若き人、病なく身強き人、猛く勇ある人、虚言する人、欲深き人」を挙げています。高く、やんごとなき人、病なく身強き人、勇猛な人を友にしないようにと言うのは、どういうことでしょうか。勇猛な人、病なく強い人は、痛み、弱さを経験していないために、人々の弱さや痛みを十分に思いやることができないから友としては相応しくないというのではないでしょうか、・・・・。モアブ人がカナン人を追放し虐殺しないで、使用人として用いることにした。その理由は、彼ら自身が不条理な苦難の旅の経験し、神の慰めを受け、優しい思いやりの心が与えられたからではないでしょうか。
 もう一つことですが、どうして、マナセ族がカナン人と共存、共生しようとしたか?ということです。マナセ族はカナン人と共存、共生が神の御旨であり、人の生きる道に適っていると信じたからです。今日、「アメリカ、ファースト」と叫ばれているように、自国主義と分断の時代だと言われます。しかし、マナセ族は異なるもの、対立するものを分断し、排斥するのではなく、共存と共生が神の御旨である。異なる人、対立する人々と共に生きるということの中に、真の命、神の祝福があるというのです。
マタイ福音書5章43節に「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたが天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者のも雨をふらせてくださるからである」とあります。神が私たちに与えてくださる信仰は、私たちが異なる者を排除することではなく、それらの人々と共に生る道です。その意味では、教会は様々異なった者の集まり、正に神の国で、違いと異なりを越えて、愛し合い、共存と共生の証の共同体であると思います。
 夭折した詩人の金子みすゞに「わたしと小鳥と鈴と」という詩があります。
「わたしが両手をひろげても、お空はちっとも飛べないが、
飛べる小鳥は、わたしのように地面(じべた)をはやくはしれない。
わたしがからだをゆすっても、きれいな音は出ないけど、
あの鳴る鈴は、わたしのように、たくさんなうたは知らないよ。
鈴と、小鳥と、それからわたし、みんなちがって、みんないい」。
「みんなちがって、みんないい」一つの基準で全ての価値を決めてしまいがちな現代において、この言葉は人々の心に鋭く優しく響きます。価値基準は一つではないのだ。たとえ一つの基準で劣っていても、わたしの価値は失われないのだと思い出させてくれる。全ての人が違います。一人として同じ人はいません。その違いと異なりを尊重し受け容れ、共生していくというのです。
もう一つ金子みすゞの「みんなをすきに」を引用します。
「みんなをすきになりたいな。何でもかんでもみんな。
 ねぎもトマトも、おさかなも、のこらずすきになりたいな。
 うちのおかずはみんな、かあさんがおつくりなったもの。
 わたしはすきになりたいな、のこらずすきになりたいな。
 世界のものはみイんな、神さまがおつくりになったもの」。
 神はわたしのありのままを肯定してくださいますから、私たちも、人の在りのままを、違いを受け容れていきたいと思います。神の共存と共生の御旨を信じて、違いと異なりを認め受け容れていく生き方こそ神の祝福であります。その事実を信じて、共に前に進んで行きたいと思います。