与えられたテキストはフィリピの信徒への手紙1章19節-21節です。パウロは獄中に捕らえられ、極刑に処せられるかもしれないという切羽詰まった極限状況下にありました。その厳しい状況の中で、「どんなことにも恥をかかず、これまでのように今も、生きるのも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています」と言っています。原文では、「切に願い、希望しています」が文頭にあり、強調しています。「切に願う」はギリシャ語の時制では「アオリスト」で、「切に願い続け、希望し続けています」となります。パウロはダマスコの教会を迫害するために向かいました。その途上で、主イエスと出会い、罪許されて、使徒とされ、異邦人の福音伝道のために選ばれました。それ以来、ずっと一貫して、何時いかなる場合も、異邦人伝道を願い、希望してきたというのです。八木重吉に「どこを断ち切っても美しくあればいいなあ」という詩があります。どの年代、どの時を断ち切っても美しくありたいと歌っています。パウロも、どこを断ち切っても、主をあがめるという願いと希望で一貫していたいというのです。
「切に願い、希望している」の「切に願い」は「首を伸ばして待ち望む、切望する」という意味です。ローマの信徒への手紙8章19節の「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます」に用いられています。ルカ福音書10章42節に「無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリアはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである。」(口語訳)とありますように、無くてならぬ、唯一つのものを一貫して願い続け、希望し続けてきたというのです。
「どんなことにも恥をかかず、・・・」の「恥をかく」は、ローマの信徒への手紙5章5節の「艱難は忍耐を生み出し、忍耐は練達を生み出し、練達は希望を生み出す。そして、希望は失望に終わることはない」(口語訳)の「失望に終わることはない」に用いられています。「欺くことがない、裏切ることがない」とも訳せます。意訳すると、「どのようなことがあっても、失望で終わらない、絶望しない、虚無にならない」となります。コリントの信徒への手紙Ⅱ11章では、パウロはたびたび欺かれ、希望を失い絶望したと言っています。福音伝道を天職、神から与えられた使命と受け止め懸命に伝道しました。しかし、どの町でも暴動が起こり、迫害に遭い、追い払われ、捕らえられました。パウロは生涯異邦人伝道に携わりましたが、数え切れないほどの挫折と失望を経験しました。しかし、同時に神の信仰と使命(ミッション)がなければ、真実に生きられないという経験をしました。
この先のフィリピの信徒への手紙3章13節に、「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」とあります。「目標」はぎりギリシャ語で「テロス」と言って、「終り、目的、神の与える希望、究極的な希望」を意味します。終末論的、神の希望をテロスとして真実に生きているから、希望は決して失望に終わらないというのです。「どんなことにも恥をかかず」は、言い換えると、キリストを通して与えられた希望は失望に終わることはない、神の約束は必ず実現するとなります。意訳すると、「切に願い、希望しています。虚しい思いにならず、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと。」となります。
この「あがめる」は「大きくする」という意味です。キリストが大きくされる。言い換えれば、キリストが第一とされるとなります。キリストが第一で、無くてならぬ唯一の存在にするというのです。「イエスさまがいちばん」という子どもの讃美歌があります。「どんなに淋しいときも、どんなに悲しいときも、イエスさまがいちばん、イエスさまがいちばん。たとえそれがどんなばあいでも、イエスさまがいちばん、イエスさまがいちばん、・・・」という詩です。「どんなばあいでも、イエスがいちばん、イエスがいちばん」。それが「あがめる」ということです。例えば、風船の中に自分とキリストが入っています。自分を大きくすれば、キリストは小さくなります。自分を小さくすれば、キリストは大きくなります。「あがめる」は、自分を小さくして、キリストを大きくすることを意味します。言い換えれば、「自分の力に頼るのではなく、キリストを信頼し、キリストに委ねる」。自分を大きくするのではなく、キリストを大きくする、すべてをキリストに委ねる。それがキリストをあがめるのです。
ヴィクトール・フランクル的に言えば、「それでも人生をイエスと言う」です。ナチスの収容所の中に、それでも人生にイエスと言おうと歌い、行動した人たちが存在しました。その生き様を目撃して「それでも人生をイエスと言う」という言葉は生まれたそうです。誰もあのような不条理な人生をイエスと肯定することができないと思います。出来るとしたら、自分が肯定されているという神の絶対的肯定が信じられている時ではないでしょうか。神に絶対的に肯定されている事実が信じられるとき、不条理な人生を肯定し、受け入れることができるのではないでしょうか。言い換えれば、神を信頼して、委ねる。それがあがめるということではないでしょうか。「切に願い、希望しています。どのようなことにも虚無にならず、これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと」。この御言葉をアーメンと受け入れたいと思います。その時、新しい道、神の希望が開けるのではないでしょうか。