与えられたテキストはフィリピの信徒への手紙3章12-14節です。5節に「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした」とあります。パウロは外国生まれのユダヤ人で、ユダヤ教の伝統と信仰に従い、生まれて8日目に割礼を受けました。成人して、ユダヤ教の権威ある律法学者になり、割礼と律法を否定するキリスト教を迫害しました。
ある日、キリスト教信徒を迫害するためにダマスコに向かっていました。その途中復活のキリストに出会いました。その「出会い」は、目からうろこが落ちるように、パウロの心の目は開かせ、キリストの迫害者からキリストの使徒に生まれ変わらせました。所謂、回心の出来事が起こりました。
8節に「わたしの主キリスト・イエスを知ることの余りのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています」とあります。キリストに出会いによって、今までの生き方やその土台が根底から揺り動かされ、根本的から変えられ、目指していた方向が180度転換させられたと告白しています。
12節には「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです」とあります。この「捕える」は「追い求める、追求する、求道する」で、「努める」は「ひたすら走る」という意味です。意訳しますと「ただ何とかしてそれを捕らえようとして、ひたすら走っているのです。なぜなら、キリスト・イエスがわたしを捕らえたのは、わたしにキリストを追い求めさせるためであるからです」となります。つまり、キリストとの出会いは、パウロをして、キリストを追い求める者、求道者に変えたと言うのです。つまり、人が神を信じ、信仰を求めるのは、その人の努力や精進ではなく、キリストに捕らえられているからで、キリストに捕らえなければ,人はキリストを求めることも、知ることが出来ないというのです。わたしたちの信仰の主体は、わたしではなく、神にあるというのです。キリスト者はキリストに捕らえられ、キリストを追い求める者であるというのです。
パウロがキリストと出会ったのは、AD34年頃、彼が40歳頃だと推測されます。この手紙を書いたのが62年としたら、パウロが68歳頃です。彼は長い信仰生活を送り、知識においても経験においても成熟し、伝道に尽くし、キリスト教教義を組織化しました。初代教会の第一人者です。その意味では完成者です。それなのに求道者というのです。
コリントの信徒への手紙Ⅰ15章8節に「そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さい者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。神の恵みによって今日のわたしがあるのです」とあります。パウロは、自分は月足らずに生まれた者,取るに足らない、既に捕らえた者ではなく、未熟な者、ひたすら追い求めている者、求道者だというのです。教会では洗礼を受けていないで、キリスト信徒になっていない人を求道者と呼んでいます。しかし、パウロに従えば、ルターの万人祭司説のようにキリスト教徒は、誰でもキリスト求める求道者、永遠の求道者です。
13節に「兄弟たち、わたし自身は既に捕えたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、目標を目指してひたすら走ることです」とあります。パウロはキリスト者の生き方をアスリートにたとえています。アスリートは後ろを振り向かず、前方を向いて、目標を目指して,ひたすら走るように、パウロはひたすら信仰を生きているというのです。ただ、信仰者はアスリートと違い、目に見えない目標を目指しています。コリントの信徒への手紙Ⅰ9章25節に「あなたがたも賞を得るように走りなさい。競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは朽ちない冠を得るためにそうするのです」とあります。「神がキリストによって上へ召して、お与えになる賞」とは「朽ちない冠、神の賞」のことです。その神の賞を頂くためにひたすらはいすというのです。
テモテへの手紙Ⅱ3章6節「世を去る時が近づきました。わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。最後の審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けて下さるのです。しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます」とあります。人生の終末的な目標を表現しています。地上のあらゆる財宝、地位、名誉を越える、もっと高い、純粋な目標、永遠の目標です。その永遠の目標を目指してひたすら走ると言うのです。
内村鑑三は「後世への最後の遺物」の中で、「キリスト者の目指すべき目標は、単なる経済的な利益や、この世的な立身出世や栄達の道ではない。キリストにある目標、すなわち、神の国と神の義とを求めること、天に宝を貯えることである」と言っています。また、「生ける魚に喩え、生ける魚は水流に逆らって泳ぎ、死せる魚は水流とともに流される」と言っています。生きている魚は水の流れに逆らって、上流に向かって泳ぎます。死んだ魚は水に流されるままになっている。人間も同じで、神の目標を与えられて、それを目指して、流れに逆らって歩む存在であるというのです。新しい年も、神がキリストによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、ひたすら走り抜きたいと思います。