新しい年を迎えお祝い申し上げます。与えられたテキストはヨハネ福音書6章の「湖の上を歩く」です。文脈を見ます。6章1節以下の「五千人に食べ物を与える」から始まっています。弟子たちは山の上で「五つのパンと二匹の魚」で行ったイエスの給食に与かります。豊かな命の糧を与えられ、溢れるような喜び、つまり、福音を経験しました。その喜びの福音を携えて、ティベリアス湖畔に降りて来ました。そこで、イエスは福音を湖の向こう側のカファルナウムの人々に伝えるようにと、弟子たちを舟に乗せ、送り出しました。ところが、弟子たちが乗った舟が岸から離れると、直ぐに強い風が吹き、湖は荒れ始めました。この「強い風が吹いて」の「強い」は、ギリシャ語で「メガロス」と言い、「逆」という意味で、「逆風、真正面から吹いて来る風」を意味します。時間的な表現を使えば、後ろ、昨日から吹くのではなく、前から、明日から、未来から吹いて来る風です。つまり、彼らの行く手、前進を拒む、未来を閉ざす逆風です。その逆風が弟子たちに向かって激しく吹いて来たというのです。
ヨハネ福音書の物語は「舟」は「教会」を、「逆風」は「前進を阻む迫害や試練」を象徴します。具体的には、ヨハネの教会に対するローマ皇帝の迫害を意味します。67節に「イエスは12人に、『あなたがたも離れて行きたいか』と言われた。シモン・ペトロが答えた。『主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます』」とあります。ローマ皇帝の迫害に耐えかね、心弱くし、教会から離れて行く者に勇気と気概を与えようとしています。
ヨハネ福音書と同時代に書かれたペトロの手紙Ⅰ4章12節に「愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい」とあります。この「試練」は「逆風」、「驚き怪しむ」は「いぶかる、不信を抱く、心を弱くする、失望落胆する」という意味です。逆風や迫害に出会っても、心弱くし、失望落胆しないようにと慰め励ましています。ヨハネ福音書の物語も、どのような行く手を阻むものがあっても、恐れないで、勇気と気概を持って生きるというのです。
20節に「イエスは言われた。『わたしだ。恐れることはない』。そこで、彼らはイエスを舟に迎えいれようとした。すると間もなく、舟は目指す地に着いた」あります。この「わたしだ」は、ギリシャ語で「エゴー エイミ」で、「わたしはあなたがどこに行っても、どこに置かれても共にいる」という意味です。詩編23編4節に「死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたし共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける」とあります。この「力づける」は「死の床から起き上がる力、どんなに激しい逆風でも、どんなに荒れ狂う海でも、どんなに深い闇でも、それらに打ち勝たせる力」を意味します。死と絶望に打ち勝つ力ある主が共にいるから、心落ち着いて、静かにして、平安でいることができるというのです。
レンブラントに「嵐の中のキリスト」という作品があります。イエスが荒波に翻弄されている舟の中で、怯えきっている弟子たちに「わたしだ。恐れるな」と勇気づけている場面です。レンブラントは苦難と試練の人生を歩まれました。サスキアと結婚して男の子が生まれましたが、直ぐ亡くなります。その悲しみが慰められるように女の子が産まれます。しかし、この女の子も1ケ月も経たないで亡くなります。その悲しみを癒すように、二番目の男の子ティトゥスが産まれます。しかし、悲劇は続きます。サスキアは産後の肥立ちが悪く、乳飲み子を残し亡くなります。その後、レンブラントはヘンドリッキと再婚します。結婚生活は13年で、彼女も亡くなります。そして、ただ一人の息子ティトウスも亡くなります。レンブラントは2人の妻、3人の子ども失う喪失感と孤独感に苦しみます。生活も困窮し、正に逆風に襲われ、荒れ狂う海を漂う小舟のようでした。その試練と苦難の中で、「嵐の中のキリスト」という作品が生まれました。「わたしだ。恐れることはない」というイエスの言葉を、自分に語られた言葉と信じ、受け入れ、主は共にいてくださる信仰から平安を得、生きる力、勇気と希望が与えられるのでした。
20節に「舟は目指す地に着いた」とあり、この物語は終わっています。共観福音書では、「イエスが嵐を叱りつけると、荒れ狂う海は静まり、凪になった」で終わりますが、ヨハネ福音書は「嵐がおさまり、荒れ狂う海が凪ぎになる」という表現はなく、「目指す地に着いた」です。そこにヨハネ福音書の信仰があります。「着いた」はギリシャ語で「ギノマイ」と言い、「実現する、成就する、成し遂げた、使命を果たした」という意味です。つまり、ヨハネ福音書の救いは、嵐が止むことや荒れ狂う海が静まることでもなく、神の使命ミッションを成し遂げ、果たすことにあるというのです。言い換えれば、神の使命を果たすという目標を目指してひたすら前進することの中に救いがあると言うのです。
フィリピの信徒への手紙3章13節に「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」とあります。目標はギリシャ語で「テロス」と言い、「成し遂げた」というイエスの十字架上の最後の言葉です。「ひたすら」の「ひた」は「一つ」という意味で、一つ心で、一筋にという意味です。新しい年も与えられた使命を成し遂げるという「目標を目指して」ひたすら走りたいと思います。