与えられたテキストはマタイ福音書8書14-17節で、らい病人の癒やし、百卒長の僕の中風の癒やし、ペトロのしゅうとめの熱病の癒しと続いています。前の二つは、らい病人がひれ伏して、主よ、御心ならば、わたしを清くしてくださいと願っています。次の百卒長は、主よ、わたしの僕が中風で寝込んで、ひどく苦しんでいます。癒やしてくださいと懇願しています。しかし、三番目の熱病のしゅうとめは本人も家族も、誰も願っていません。主イエス自らが決意し癒やされました。イエス自らが決断し癒すところが、このペトロのしゅうとめの癒し物語の特色です。
14節に「イエスはペトロの家に行き、そのしゅうとめが熱を出して寝込んでいるのを御覧になった」とあります。この「行き」ですが、「強い意志をもって入って行く」という意味があります。イエスが最後の晩餐の後、十字架の道を受け入れるために、弟子たちを連れて、ゲッセマネの丘に行き、祈りをささげています。そこに、ローマの兵士たちがイエスを捕らようと、松明と武器をもって近づいてきました。イエスが兵士たちに「誰を捜しているのだ」と尋ねると、兵士たちは「イエスだ」と応えます。すると、イエスは一歩進み出て「それはわたしだ」と名乗り出たといいます。イエスが逮捕される代わりに、弟子たちを許して欲しいと申し出、身を投げ出して、弟子たちを守られたというのです。この「入って行き」は弟子たちを救うために自ら決断し、前に進み出るイエスを伝えています。
ペトロは弟子に招かれるとき、「家、兄弟、母、父を捨てなければ、わたしの弟子となることはできない」というイエスの言葉に聞き従いました。しかし、誰でも家族が病気になれば、心配し、思い患い、ひどく心を痛めるように、ペトロも弟子になりましたが、熱病のしゅうとめのために心を痛め悩みました。このペトロの事実は、誰でもイエスに従おうとすると、心を痛め、思い煩い、心悩ます問題が生じることを伝えています。イエスが熱病のしゅうとめの寝ているペトロの家に入って行くということは、イエスが現実の問題、悩みの中に、自ら決断して関わってくださることを表しています。このペトロの家に入って行くイエスは、イザヤ書53章4節の「彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った」、また、詩編34編19節の「主に従う人には悩みが多い、しかし、主はすべてから救い出し、骨の一本も損なわれることのないように、彼を守って下さる」という預言の成就だと言われます。つまり、イエスに従う故に生じてくる課題と悩みに関わってくださる事実を示しています。
14節に「イエスはペトロの家に行き、そのしゅうとめが熱を出して寝込んでいるのを御覧になった」とあります。この「御覧になる」は「見つめる、しっかり見る、眼差しを向ける」という意味で、ペトロがイエスを裏切ったとき、「主は振り向いてペトロを見つめられた」に使われています。イエスは病む者に優しい眼差しを注いでくださいます。「寝込む」は「荷物を置く」と言う意味です。しゅうとめは年老いて、その上、病気です。気兼ねをし、自分の居場所がないと思っていたのではないでしょうか。彼女は荷物のように置かれていたというのです。本田哲郎神父によれば、「小さくされた者」です。しかし、イエスは、その小さくされた存在を癒し救うために強い意志を持って入って行く、十字架を負ってくださるというのです。
15節に「イエスがその手にさわられると、熱は去り、しゅうとめは起き上がって、イエスをもてなした」とあります。「起き上がって」は「生まれ変わる、甦える、生き返る」と言う意味です。「もてなし」は「仕える」です。マルコ福音書10章45節に「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」とあります。主イエスは「仕えられるためにきたのではなく、仕えるために来た」と、世に遣わされた使命を明らかにしているように、しゅうとめも熱が去り、起き上がり、生まれ変わると、主イエスに仕える者になったと言うのです。「主に仕える」は、言い換えれば、「主に喜ばれるように生きる」という意味です。ガラテヤの信徒への手紙1章10節に「今わたしは、人に喜ばれようとしているか、それとも、神に喜ばれようとしているか、もし、今なお人に喜ばれようとしているとすれば、主の僕ではあるまい」とあります。主に仕えるは、主に喜ばれることを終末的な目的にして生きることを意味します。
熱は去り、起き上がり、そして、主に仕えるという順序が大事です。主イエスに癒やされ、許されることが先にあって、その後に仕えるがあります。言い換えれば、癒やされ、感謝があって、主に仕えるがあるのです。つまり、感謝がなく仕えるなら、仕えねばならない、ネバナラナイ、律法、道徳になってしまいます。本質は戒めや律法ではなく、福音信仰です。ローマの信徒への手紙14章8節に「わたしたちが今生きているとすれば、それは主のために生きているのであり、死ぬとすれば、これまた主のために死ぬのである。だから、生きていても死んでいても、わたしたちは主のものです」とあります。究極的には、わたしたちの生きる根源と根拠は、誰でもない、何ものでもない、主イエスにある事実が明らかにされています。仕えねばならないではなく、仕えないではいられない。感謝と喜びから生まれる信仰の世界です。この言葉を信じて、受け入れて行きたいと思います。