与えられたテキストはマタイ福音書8章23-27節です。弟子たちがイエスと湖の向こう岸に渡ろうとした時、突然激しい嵐に襲われ、舟は転覆しそうになりました。ところが、イエスは舟の艫で眠っておられるのです。弟子たちはイエスに近寄って起し、「主よ、助けてください。溺れそうです」と訴えると、イエスは「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ」と言い、嵐と湖とを叱ると、嵐と湖は静まり凪になったと言います。所謂、イエスの奇蹟物語です。この奇跡物語が伝える福音、使信・ケリュグマ、信仰について考えてみたいと思います。
「嵐」はギリシャ語で「セイスモス」と言い、新約聖書では12回使われています。11回は「地震」と訳され、ここだけ「嵐」と訳されています。原語は、「セイオー・揺るがせる、動揺する」で、人の存在が根底から揺り動かされることを意味します。東日本大震災のような激しい地震と津波が起こったというのです。弟子たちは慌てふためき、舟の艫で眠っているイエスを起こし、「主よ、助けてください。溺れそうです」と叫んだといいます。この「溺れる」は「アポ・完全に」と「オリュミ・滅びる」から成り「完全に滅びる」という意味です。弟子たちは内的、霊的に完全に滅びると悲鳴を上げ、叫んだのです。
サウル王はイスラエルの初代の王に選ばれるのですが、失政を重ね、信任を失い、王の座から追われます。サムエル記は、その原因はサウルの中に神を信じる信仰がなかったからだと言います。イザヤ書7章9節に「信じないならば、立つことはできない」とありますように、サウル王は自分を肯定する根拠、自分を顧み、委ねるものを失ったために、猜疑心と虚無に襲われ、内的、霊的な滅びに至ったというのです。弟子たちは、サウル王と同じ実存ですが、根本的に違うのは、「主よ、助けてください」と呼びかけるイエスへの信仰があったという点です。その点が本質的です。
文楽に豊竹英太夫という熱心なキリスト者がおられました。彼は阪神淡路大震災後、「Gospel in 文楽」という題目で、イエス・キリストの生涯を演じました。阪神大震災の後ですから、皆将来に希望を見いだせず、不安に襲われ、失望落胆していました。彼は「Gospel in 文楽」の中に、「イエス様、お助けくだされ。ああ舟が、舟が。起きてくだされ、起きてくだされ、ああ、、、、」と、弟子たちが絶叫する場面を入れています。脚本はカトッリック信者の川口眞帆子さんでした。川口さんも豊竹英太夫さんも、弟子たちが主イエスに助けを求めているところが信仰の原点であると言っています。
25節に「弟子たちは近寄って起こし、『主よ、助けてください。おぼれそうです』と言った」とあります。マタイ福音書は、マルコ福音書と異なって「近寄って」という言葉を書き加え、弟子たちが「主よ、助けてください」と叫んだことを強調しています。「助けてください」は「救う、繋がる」という意味で、「救ってください、繋がってください」と叫んでいるのです。イエスに繋がることが救いだというのです。つまり、主イエスに繋ることが救いと信仰の原点だというのです。
26節に「イエスは言われた。『なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ』と」あります。「なぜ怖がるのか」の「怖がる」は、元来は、二つの方向を同時に見るという意味です。弟子たちはイエスと荒れ狂う湖とを同時に見ている。つまり、イエスに目を向けながら、もう一方で荒れ狂う湖を見ている。怖れの原因はイエスを見上げるのではなく、他のものに心を奪われているところにある。平静心は主イエスだけに繋がり心を集中し、統一することから生まれるというのです。「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを取り除く」という言葉があります。愛はイエスにのみ目を注ぎ、イエスに繋がることであるというのです。
ルターは「薄い信仰は、見えるものしか見ない、或いは、見えないものを信じることができないことである」と言います。つまり、弟子たちの信仰の薄さは見えないものを信じることができない。見えるものだけを頼りにして生きているところにあるといいます。弟子たちは嵐と荒れ狂う湖しか見ることができませんでした。見える現実が全てと思っていました。ローマの信徒への手紙8章28節に「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たち共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている」とあります。弟子たちは、イエスの支配が見える現実の背後にあることを信じることができませんでした。
26節に「イエスは起き上がって風と湖とをお叱りになると、すっかり凪になった。人々は驚いて、『いったい、この方はどういう方なのだろう。風や湖さえを従うではないか』と言った」とあります。不思議なことですが、嵐はやみ、荒れ狂った湖はすっかり凪になったというのです。イエスは信仰が薄いと言って、切り捨てることはありません。もう一つの現実を信じ受け入れることができるように導いてくださいます。
このテキストの背景にはマタイの教会に対するローマ帝国の迫害があると言われます。マタイの教会は激しい迫害を受け、苦難と試練の中にありました。「主よ、お救いください」という叫びは、マタイの教会の叫びであるといわれます。イエスは教会の叫びに応えて、嵐を静め、荒れ狂う湖を凪にしてくれました。その事実は厳しい状況の中に置かれた教会やキリスト者に勇気と希望とを与えてきました。「主よ、お助けください」と叫べば、必ず答えてくださる。そのイエスを見上げ、信じて、委ねていきたいと思います。