収税人マタイが主イエスに招かれて弟子になり、従うところです。国際大塚美術館の二階の正面に、カラヴァッジョの「聖マタイの召命」が展示されています。大きい絵で観る者を圧倒し、大きな感動を与えます。同じ様に、今日のテキストは多くの人に感動を与え、強く訴えるものがあります。わたしをキリスト教に導いてくれた内科医の先生も、この御言葉に出会い、人生を変えられました。先生は信州の諏訪の出身で、キリストの福音を伝える医者になろうと、当時石原謙先生がおられた東北大学の医学部に進学されました。卒業後、静岡県の島田市で開業され、何人もの人の命を助けられ、その傍らで青年たちを集めて、聖書塾を開き、キリスト教伝道に命をかけておられました。先生が福音伝道をする医者になる契機となったのが、主イエスの「わたしに従いなさい」という招きの言葉であったと言われます。
先生の出身地である信州は明治時代にキリスト教が広まり、特に教育界に浸透していきました。その先駆者は、信州のペスタロッチと言われた井口喜源治です。井口喜源治は安曇野の穂高の出身で、明治17年、穂高にキリスト教主義の私塾、研成義塾を始めました。大糸線の穂高駅前に記念館があります。その近くに碌山美術館があります。研成義塾からは萩原碌山、相馬黒光、清沢洌(きよし)、東条たかしなど芸術家、実業家、学者が輩出しました。井口喜源治は、当時、キリスト教に対する迫害、妨害で苦難と試練の中で、伝道をします。その苦難に打ち勝った要因が神に召されたという神の召命信仰です。「わたしに従ってきなさい」という主イエスの言葉を聞き従いました。コリントの信徒への手紙Ⅰ1章18節に「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」とありますように、聖書の言葉は人を生まれ変わらせ、新しい道を行かせる神の力です。
9節に「イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、『わたしに従いなさい』と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った」とあります。この「立ち上がる」はギリシャ語で「アナスティーシス」と言い、「復活する、甦る、死から生き返る」という意味があります。マタイは主イエスに出遭い、死から命に立ち返り、新しい存在に変えられたのです。
カラヴァッジョの「聖マタイの召命」ですが、収税人マタイは事務所と思われる暗い部屋の奧の机の上で、お金を数えています。主イエスの指は収税人マタイを差しています。その主イエスの指は、ミケランジェロのシスティナ礼拝堂の天上画の「アダムの創造」に描かれている神の指に似ています。「立ち上がり」は、神の創造の業だと言うのです。
この「立ち上がる」は、「マタイという人が収税所に座っているのを見かけて」の「座っている」に対照させています。カルヴァッジョは、「闇と光」「暗と明」の画家と言われます。「座っている、暗闇」は「立ち上がる、明」に対照させ、立ち上がるマタイを力強く描いています。「座っている」は「座り込む、倒れる」という意味で、マタイの心の闇を表しています。カラバァジョは、机の上の金貨を夢中になって数えているマタイを貪欲な罪を犯す拝金主義者と描いています。
マタイの時代ですが、ユダヤは、ローマ人の占領下で、イドマヤ人のヘロデがユダヤの王でした。選民意識の強いユダヤ人は、占領者のローマ人に敵対心をもち、憎んでいました。あちこちで、ローマに対する反乱事件を起こしました。ローマ人はユダヤ人との摩擦を避け、税金徴収をユダヤ人に請け負わせました。その請負人が収税人です。彼らはローマ人の手先、売国奴と嫌われ、罪人と言って軽蔑されていました。彼らは反動でお金を頼りにし、偶像礼拝の罪を犯していました。
カラバァジョは、マタイに向けて指差すイエスの腕を、ペテロらしき人物が押さえ込もうと描いています。「なぜ、こんな卑しい者、収税人を招くのか」と言っているみたいです。マタイは、主イエスのことなどまったく気づいていません。派手な格好をし、金勘定に夢中になっています。奇しき御業と言いますが、主イエスは醜悪なマタイを招かれるのです。主のなさることは、計り知ることはできません。神の招き(選び)は、選ばれる側に理由、資格、能力はありません。むしろ、逆です。罪人が招かれる、選ばれると言うのです。マルコ福音書2章17節に「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」とあります。主イエスの逆説です。その人の欠に目を留められ、招かれるのです。
パウロは使徒に招かれたことを顧みて、「主は使徒の中で、一番小さい者、いわば、月足らずで生まれた者を敢えて選ばれた」と言っています。また、「あなたがたの召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけではありません。神は敢えて世の無学な者を選び、無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を敢えて選ばれた」と言っています。「敢えて」の選びです。「むりに、わざわざ」召されたというのです。「無学な者、世に無き等しい者」が、どうして選ばれるのか、その理由は分かりません。秘儀です。主イエスの深い意図と御旨があります。人間としては、ただ、選ばれた事実を受け入れる、信じることだと思います。選ばれた事実を率直に、積極的に受け入れることです。「召命」は、キリスト教特有の言葉です。ギリシャ語「クレーシス」と言い。「名前をもって呼ぶ、神の恵によって、選ばれ、使命を果たすよう神から呼びかけられる」という意味です。誰にも、神から与えられる召命と使命があります。それを問いながら、祈りながら、主イエスを見上げて歩んで行きたいと思います。