2020年11月8日 マタイ福音書9章14-17節 「キリストの新しさ」

 与えられたテキストは、「断食の物語」と「新しいぶどう酒と古い革袋のたとえ」「織りたての布切れと古い服のたとえ」の三つの伝承(ペリコーペ)です。この三つの伝承はそれぞれ違った場所と時に語られ、後に、福音書記者が編集するとき、まとめたと考えられます。総括的には、13節に「わたしが来たのは」とありますように、主イエスが来られたことによって起こった救いについて語っています。   
14節に「そのころ、ヨハネの弟子たちがイエスのところに来て、『わたしたちとファリサイ派の人々はよく断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食をしないのですか』と言った。イエスは言われた。『花婿が一緒にいる間に、悲しむことができるだろうか。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。そのとき、彼らは断食することになる』」とあります。11章と14章を見ますと、彼らが尊敬し、師と仰ぐバプテスマのヨハネが、ヘロデ王に虐殺されます。バプテスマのヨハネはヘロデ王が弟のフィリポの妻ヘロデアを略奪し、重婚をするという悪行に激しく抗議し、捕らえられ、死海の絶壁にあったマケラスの城塞に閉じ込められました。そして、ヘロデの誕生日に、ヘロデアの連れ子サロメの踊りの褒美にバプテスマのヨハネの首が求められ、殺害されました。バプテスマのヨハネの殉教の死は、彼の弟子たちに大きな衝撃を与えました。彼らの信仰は根底から揺るがされ、無秩序のカオス、絶望、空虚に陥りました。なぜ義しいヨハネが殺害され、悪しきヘロデが冨み、栄えるのかという不条理、理不尽に打ちのめされ、絶望させられました。断食はヨハネの弟子たちの絶望感の現れです。「断食」の原語は、「メー・否定」と「エスセイン・食べる」でなっています。つまり、「食べない、飲み食いを断つ」という意味です。「婚礼の客は悲しむことができるだろうか」とあります。この「悲しむ」は、「飯も喉を通らない悲しみの気持ち」という意味で、語源的には「断食」と同じです。「断食」はバプテスマのヨハネの死を悼み、飯も喉を通らない悲嘆と絶望の断食であるというのです。意訳すると、「わたしたちは絶望しているのに、なぜあなたの弟子たちは絶望しないのですか」となります。
15節に「花婿(主イエス)が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか。」とあります。「悲しむことができるだろうか」と疑問文になっていますが、原文は「悲しむな」という命令形です。ギリシャ語の命令形は勧告、説得を意味します。意訳すると、「悲しまなくても良いのだ。悲しむことはないよ」となります。花婿の主イエスが共にいるのだから、悲しまなくても、絶望しなくてよいというのです。
「花婿が一緒にいる間」の「いる」は、ギリシャ語で「エイミィ」と言って、「わたしはいる、わたしは必ずあなたと共にいる」という意味です。主イエスはきのうも、きょうも、あすも、永遠にいる方です。順境の時も、逆境の時も、共にいて下さる、あらゆる苦難と絶望を越える希望を与えてくださるというのです。
エリザベツ・キューブラー・ロスという死生学の先駆者、癌末期の人々の魂のケアー、遺された者のブリーフ・ケアの開拓者がいました。彼女は日本のホスピス、終末医療にも大きな影響を与え、だれもが敬服する医師です。彼女は晩年脳卒中で倒れ、半身不随になり、ヘルパーに助けられながら、一人暮らしをするようになりました。「わたしは、四十年間神に仕えてきました。ところが、隠退した直後、脳卒中で倒れ、何もできなくなり、歩くこともできなくなりました。それで、わたしは激しく怒りを持つようになりました。この頃は、神を裏切り者、ヒトラーと呼んでいる」と告白しています。神と自分の運命を呪うという彼女のインタービューを聞いて、多くの者は驚きました。「あなたは、今まで、多くの苦しむ患者を助けてきたのに、なぜ、自分を救えないのですか」と質問されると、彼女は「人生では二つのことが大事なのです。愛を与えることと、愛を受け入れることです。わたしは、愛を受け入れることに関して落第だったのです」と言っていました。人間は不思議な存在というか、弱い、罪の存在です。なにかにつけ希望を見失い、絶望します。主イエスはその弱い罪み深い者に勇気と希望を与えるために来られたというのです。その信仰的事実を謙遜に受け入れることが本質だというのです。
16節に「だれも、織りたての布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。新しい布切れが服を引き裂き、破れはいっそうひどくなるからだ。新しいぶどう酒を古い革袋に入れる者はいない。そんなことをすれば、革袋は破れ、ぶどう酒は流れ出て、革袋もだめになる」とあります。イエスが来たことは、古い革袋を破ってしまう新しさをもたらすというのです。エフェソの信徒への手紙4章22節に「古い人を脱ぎ捨て、心のそこから新しい人を着る」、コリントの信徒への手紙Ⅱ4章16節に「たとえわたしたちの外なる人(古い人)は衰えていくとしても、わたしたちの内なる人は日々新たにされていきます」とあります。イエスの到来によって、古い人を脱ぎ捨て、日々、新たにされ、新しい人に変革されるというのです。
ラインホルト・ニーバーに「変えることのできるものを受け入れる勇気と、変えることのできないものを受け入れる冷静さを。変えることのできるものとできないものを見分ける知恵を与えてください」という祈りがあります。この祈りを知ったのは、作家の高史明さんの連れ合い岡百合子さんの著書「ばくは12歳」を通してです。彼女は、一人息子を自死で失います。長い間、悲嘆と絶望に打ちひしがれていました岡さんを慰めようと送られて来た友人の手紙の中に書かれていたのが、この二ーバーの祈りでした。主イエスが来られたのは悲嘆と絶望の中にある私たちに変わる勇気と変えられないことを受け入れる冷静さを与えるため、古い人を脱ぎ捨て、新しい人を着るためであるというのです。主イエスの言葉を信じて受け入れ、見上げていきたいものです。