2020年2月16日 フィリピの信徒への手紙4章4-7節 「主に繋がって」

 与えられたテキストはフィリピの信徒への手紙4章4-7節です。4節に「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」とあります。原文は「常に」という副詞が文頭にあります。ギリシャ語で「パース」と言い、「全て」と意味です。ローマの信徒への手紙8章28節の「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事を益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」の「万事」が同じ言葉です。苦難や試練をも喜ぶというのです。パウロは、ここで「一時的な喜び、苦難や試練に出会うと失ってしまう有限的喜び」の「エドネ-」ではなく、「苦難や艱難に出会っても喜ぶことができる喜び」の「カイロー」を用いています。ローマの信徒への手紙5章2節「このキリストのお蔭で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも喜びとしています」とあります。逆説的ですが、苦難をも喜ぶというのです。また、「常に主において喜びなさい」と言います。「おいて」は、ギリシャ語で「エン」と言い、「あって、結びついて、繋がって」という意味です。意訳すると、キリストにあって、主に繋がって、結びついて喜びなさいとなります。「主に繋がる、結びつく」ことが最も本質的であるというのです。
 ダグ・ハマーショルドは「祈りの水路」、祈りはキリストとわたしを繋ぐ水路だといいます。その祈り水路を使ってキリストに繋がると、キリストの息、命、聖霊が流れ込んで来て、満ちあふれさせるといいます。創世記2章7節に「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻から命の息(ネシャーマー・spirit)を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」とあります。使徒言行録1章8節には「あなたがたの上に聖霊(ネシャーマー・spirit)が降ると、あなた方は力を受ける」とあります。ネシャマー・聖霊は力・デュナミスであると言います。主に繋がるとネシャマー・聖霊が流れ込み、人を造りかえる。つまり、艱難をも喜ぶことができる者に変えられると言うのです。
ヨハネ黙示録3章20節に、「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をする」とあります。「戸を開ける」はキリストに繋がり、聖霊に満たされ働くことを意味します。「食事を共にする」は「勝利と喜びに与る」ことを意味します。キリストに繋がると、ネシャーマー・spiritは人の中に入り、聖霊で満たし、苦難と試練に輝く勝利を得させる。つまり、どのようなことがあっても喜ぶことができる者とされるというのです。
5節に「主はすぐ近くにおられます」とあります。文頭に「から」という前置詞があります。意訳すると、「主はすぐ近くにおられますから、主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」となります。つまり、主がすぐ近くに、共におられる、寄り添っておられる。だから、喜ぶことができるというのです。
 主なる神がはじめてモーセに現れた時、「わたしはある。わたしはあるというものだ。わたしはあなたがどこに行こうとも、必ずあなたと共にいる」と告げたといいます。神は、イスラエルが40年間荒れ野の旅をしたとき、ある時には民を胸に抱き、ある時は背負って運んだといいます。主なる神は、いついかなる場合も、寄り添い、共にいてくださる。だから喜ぶことができるというのです。「喜びなさい」は現在命令形で、いわゆる、「喜びなさい、喜ばなければならない」という命令や義務ではありません。「喜べる、喜ぶことができる」という慰めと励まし、福音の言葉です。
 5節に「あなたがたの広い心がすべての人に知られるようにしなさい」とあります。この「広い心」は「寛容、寛大、おおらか」という意味です。そして、この「広い心、寛容」はパウロの信仰を最も良く表している言葉です。使徒言行録10章に、ペトロが一つの幻、天から律法で食べはいけないと禁じられていた家畜、地を這うもの、空の鳥が入っている大きな風呂敷が天から降りてくるのを見ます。その時「それらを食べなさい」という言葉が聞こえてきました。ペトロは「主よ、とんでもないことです。汚れていると律法で禁じられているものは、一度も食べたことはありません」と答えました。すると、「わたしが造ったものを、汚れていると言ってはならない」という神の声が聞こえたといいます。ペトロは、その幻を見た後、異邦人の百人隊長コルネリウスを受け入れ、異邦人伝道が始まったと言います。「汚れたもの」は「異邦人、罪人、徴税人、ライ病人、遊女」を意味します。それらを排除するのではなく、受け入れる。違った信仰、異なった考え持つ者を受け入れ認める信仰です。金子みすゞの詩に「みんなちがって、みんないい」という言葉があります。排除でなく、共生、共存です。パウロにとって最も本質的である寛容、寛大を示しなさいというのです。
 6節に「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい」とあります。「打ち明ける」は「エピ・上に」と「リプトウ・投げる」という二つ言葉から成っています。つまり、「神に一切を投げかけ、委ねる」という意味です。7節に「そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」とあります。「守る」は「破れた布を繕い直して元に戻す」という意味です。主イエス・キリストは破れを見つけて、繕い直してってくださる。倒れると根底から立て直してくださるというのです。ヨハネ福音書15章4節に「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない」とあります。主につながって、喜びをもって、それぞれの道を歩んで行きたいと思います。