与えられた御言葉の一つはヨハネ福音書8章32節の「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」です。「真理」は、ギリシャ語で「アレセイア」と言い、新約聖書の中で54回使われています。たとえば、ヨハネ福音書18章のイエスの裁判の場面に用いられています。イエスが「わたしは真理について証しするために生まれ、そのために来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」と言うと、ピラトが「真理とは何か」と言いました。ヨハネ福音書はギリシャ人のために書かれたと言われ、哲学的用語の「アレセイア・真理」を使ったと思われます。「アレセイア」は「真実、本当」と言う意味ですが、ヨハネ福音書は「イエス」を象徴しています。また「真理を知る」の「知る」は「信じる」という意味です。意訳すると、「あなたがたはイエスを信じ、イエスはあなたがたを自由にする」となります。本質的なことは、「イエスを信じる」ということではないでしょうか。
国立国会図書館の2階ホールの壁に、「真理が我らを自由にする」と言う言葉が、日本語とギリシャ語で刻まれていますが、「あなたたちは真理を知り(信じ)」という言葉はありません。札幌農学校のクラーク博士の「少年よ、大志を抱け」でも、「キリストにあって」を省いています。しかし、重要な意味を持っているのは「真理を知り(信じ)」、「キリストにあって」という言葉ではないでしょうか。そして、「自由にする」は「解放する、解き放す」という意味で、罪の赦し、あらゆるしがらみからの解放を意味します。それはイエスの十字架を信じて、はじめて可能となり、イエスの十字架と復活を信じることなくして、罪からの解放、罪の赦しはあり得ないと思います。
31節に「イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。『わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である』」とあります。ユダヤ人は皆イエスに躓き、イエスを憎み、イエスを迫害しました。しかし、「イエスを信じたユダヤ人」は、時代の流に逆らうように、「わたしは信じる」という主体的信仰を持った人たちです。その主体性的にイエスを信じたユダヤ人に「あなたがたは真理を知り(イエスを信じ)、真理(イエス)はあなたがたを自由にする」と言ったというのです。つまり、イエスを主体的に信じることが最も本質的なことであるというのです。
フィリピの信徒へ手紙4章1節に、「だから、わたしが愛し、慕っている兄弟たち、主によってしっかりと立ちなさい」とあります。「しっかりと立つ」は、ギリシャ語で「ステケオー」と言い「堅く立つ、確かに立つ」という意味です。別の言葉で表現すると、「毅然として、尊厳をもって生きる、信仰も持って生き抜く」となります。文頭に「だから」という前置詞を置いて、しっかりと立つことができる理由、根拠を示しています。3章31節に「キリストは万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです」とあります。この「できる」は、ギリシャ語で「デュナマイ」と言い、「ダイナマイト」の語源です。マルコ福音書10章27節に「人間にはできることではないが、神にはできる。神は何でもできる」とありますように、イエスの無限の力を表現しています。「力」は「エネルゲイア」で、「エネルギー」の語源です。ローマ信徒への手紙4章17節に、「死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神」とあります。つまり、無から有を生み出す神、無限の力を持つイエスが支え、寄り添ってくださる。だから、しっかりと立つことができる、毅然として生き抜くことができるというのです。
21節に「わたしたちの卑しい体を御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです」とあります。この言葉は実証でき、客観的に認められることではありません。信仰的真理、信じる信仰です。つまり、キリストの力を信じる信仰が、しっかりと立たせる。ここでも信じる信仰がより本質的であるといいます。預言者イザヤが、アハズ王に「信じなければ、あなたは確かにされない、立つことはできない」と神の言葉を伝えるところがあります。イザヤ書9章9節に「信じなければ、あなたがたは確かにされない」、そして、30章15節に「静かにしているならば救われる。やすらかに信頼していることにこそ力がある」とあります。信じれば確かにさる。本質は信じることであると言います。
元成蹊女子短期大学学長木村一信先生は癌の病気で亡くなりました。先生は亡くなられる前に、ローマ6章4、5節「キリストが御父の栄光によって死者の中から復活されたように、わたしたちも新しい命に生きることができます」を引用し、「わたしたちがキリストと一体になって、その死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかることができるでしょう」と書き残されました。「復活の姿にあやかる」は、勿論、実証され、論理的に説明できることではありません。しかし、先生は「わたしは信じます」と主体的に受け入れられました。その結果、復活への希望が与えられ、死の恐怖から解放され、平安と確かな心をもって、召されて逝かれました。信仰の勝利を証しされました。「この卑しい体が栄光の体に変えられる」という神の言葉を主体的に信じて受け入れる時、未来の根源的希望を与えられ、しっかり立つ者とされるのではないでしょうか。