テキストはヨハネ福音書6章1-21節です。1節に「その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。」とあります。ヨハネ福音書は「ガリラヤ湖」を「ティベリアス湖」と呼んでいます。「ティベリアス」は、ローマ皇帝ティベリウス(AD 14-37)のことです。ユダヤ人の王ヘロデがティベリウス皇帝に忠誠心を表わすために、湖畔に都市と別荘を建設し、ガリラヤ湖をティベリアス湖に改めました。ヨハネ福音書は、イエスは皇帝の地ティべリアスで「大麦のパン五つと二匹の魚で五千人に給食」と「ティベリア湖上を歩く」という不思議な業を行った。つまり歴史と人生の真の支配者はローマ皇帝ティベリウスではく、イエス・キリストであると言うのです。
20節に「『わたしだ。恐れることはない。』そこで、彼らはイエスを舟に迎えいれようとした。すると間もなく、舟は目指す地に着いた」とあります。ヨハネ福音書は1世紀末から2世紀初頭に編集されました。81年ドミティアヌスが皇帝に即位すると、キリスト教は激しい迫害を受けました。キリスト者は捕らえられ、獄につながれ、多くの者が理不尽にも殺されていきました。「大麦五つのパンと二匹の魚で五千人の給食」と「湖上を歩く」の物語は、厳しい迫害の中で苦しみ絶望するキリスト者に勇気と希望を与えました。
12節に「人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、『少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい』と言われた。」とあります。「満腹する」は、ギリシャ語で「プレローン」と言い、「満ち溢れる、ただ空腹が満たされるのではなく、イエスの命と霊が満ち溢れる」という意味です。わたしたちの人生と歴史の真の支配者は、世の権力者のドミティアヌス皇帝ではなく、イエス・キリストである。イエス・キリストの信仰が迫害と苦難を乗り越える力であるというのです。
5節に「イエスは、フィリポに、『この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか』と言われたが、こう言ったのはフィリポを試みるためであって、ご自分では何をしようとしているか知っておられたのである。フィリポは、『めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう』と答えた。弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟のアンデレが、イエスに言った。『ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。』」とあります。「大麦」は共観福音書にはなく、ヨハネ福音書特有の言葉です。「大麦」は家畜の飼料で、小麦を買うことできない貧しい人の食料だったそうです。つまり「大麦」は「貧しさ」を象徴しています。また、「少年」もヨハネ福音書特有の言葉です。ギリシャ語で「パイダリオン」と言い、「奴隷の子供」という意味で、「小さい、弱小」を象徴しています。フィリポは「二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と、アンデレも「何の役にも立たないでしょう」と、五千人の群衆を目の前にして、呟き、諦め、絶望しています。
11節に「さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。人々が満服したとき、イエスは弟子たちに、『少しも無駄にならないように、残ったパン屑を集めなさい』と言われた」とあります。この「さて」は「見よ、見上げなさい」という意味です。意訳すると、「見よ、見上げなさい。イエスはパンを取り・…」となります。弟子たちが「どうにもならない、どうしようもない」と諦め絶望していたとき、イエスは「感謝の祈りを唱えた」と言うのです。「感謝の祈りを唱えた」は、ギリシャ語で「エウカリステオー」と言い、「賜物」と言う意味で、意訳すると「賜った恵みに感謝した」となります。「大麦のパン五つと魚二匹」のように、わずかで小さくてつまらなく見えるものを神から賜った恵みと感謝して受け入れたというのです。
また、「エウカリステオー」は「大事にする、用いる、愛する」という意味があります。つまりイエスは「どうしようもない」と捨てるものを愛し大事に、用いてくださるというのです。イエスがエルサレムに入場されるとき、馬でなく、イエスの足が地に着くほど小さなロバを「主がお入用です」と言って用いられました。5章では38年間も、ベトザタの池で動くことができない人をイエスは癒し、神をあがめる者に変わらせました。8章では姦淫の女、9章では、イエスは生まれつきの盲人に「本人が罪を犯したからではなく、両親が罪を犯したからでもない。神の御業がこの人に現れるためである」と言って、永遠の希望を与えています。つまり、イエスはいつも小さな者、弱い者を愛し、寄り添っています。
コリントの信徒への手紙Ⅰ1章26節に「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵ある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を敢えて選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を敢えて選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするために、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を敢えて選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです」とあります。イエスは神の栄光が現れるために、小さな者、無力な者、無きに等しい者を敢えて選ばれます。その神の恵みに感謝し、応えていきたいと思います。