2020年5月17日 ルカ福音書19章45-58節 「祈りに祝福」

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 与えられたテキストはルカ福音書19章45-48節です。イエスがエルサレムに上り、エルサレム神殿の信仰の荒廃と腐敗を目撃しました。祭司長や指導者たちがお供え用の鳩を高額で売り、お賽銭のために両替店を出し、私利私欲を満たしていました。45節に「それからイエスは神殿の境内に入り、そこで商売をしていた人々を追い出しはじめて・・・」とあります。「それから」は「心を痛めて」という意味です。平衡記事のマルコ福音書は「ムチを振るって、台や腰掛けをひっくり返して、激しく憤った。」とありますが、ルカ福音書は「イエスは心を痛めて」と記し、信仰の腐敗が個人は勿論、国や社会を滅びに至らせる事実を見て、激しく憤るのではなく、心を痛めるイエスを描いています。
46節の後半に、エレミヤ書7章11節を引用し「ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にした」と記しています。この「強盗」は、ヘブル語で「ガンナーブ」と言い、「思い違い、倒錯、錯覚」という意味です。バアルやアシェラやタンムズの神々には、人を生かす力はないのに、力があるかのように、思い違いをしているというのです。コリントの信徒への手紙Ⅱ4章18節に「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」とあります。見えない神を信じ、信頼していくのが本来の信仰なのに、目に見えるお金や権力を依りどこにする信仰の倒錯が国と人を腐敗と滅びに至らせたるというのです。
 46節の前半の「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」は、イザヤ56章7節「わたしの家は、祈りの家でなければならない」の引用です。「祈りの家と呼ばれる」の「祈り」は、ギリシャ語で「プロスエウコマイ」と言い、「プロス・繋がる、願う、願望」と「エウコマイ・祈る」という二つの言葉で成っています。ヨハネ福音書15章4節に「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない」とあります。「祈り」は「神に繋がる」ことを意味します。イエスは、祈り、つまり物に繋がるのではなく、神に繋がることを求めています。神に繋がることが滅びから救われる手立てであるというのです。
 このテキスト・「神殿から商人を追い出す」は、文脈をみると、18章9以下の「ファリサイ派の祈りと徴税人の祈り」と、22章39節以下の「オリーブ山で祈る」の間に編集しています。前者は、ファリサイ派は「わたしは他の人のように罪人でないことを感謝します」と祈り、徴税人は胸を打ちながら、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と祈りました。すると、イエスは「義とされて家に帰ったのは、罪人を憐れんでくださいと祈った徴税人である」と言われた、と物語っています。この「憐れむ」は、ギリシャ語で「イラスコマイ」と言い、「慈しむ、慈悲をかける」と言う意味です。何の条件もなく、汚れたままで神に受け入れられる。つまり、自分の力で生きているのではなく、神の恵みによって生かされているというのです。言い換えれば、祈りが人の生きる根拠、存在の根源であるというのです。
後者の「ゲッセマネの祈り」は、イエスは弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われた。そして自分は、石を投げて届くほどの所に離れ、ひざまずいてこう祈られた。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」と、物語っています。誰でも受け入れがたい、不条理なことに出会います。しかし、絶望することなく、神の御旨を信じて生きる。言い換えれば、祈りがわたしたちの存在の根拠、生きる力であるというのです。ルカ福音書は、このテキスト・「神殿から商人を追い出す」を二つの祈りの物語の間に編集することによって、真の祈りについて語っています。「祈り」は「プロスエウコマイ、繋がる、願う」です。神に繋がり願いが祈りの本質であるというのです。
 マルコ9章14節以下に、汚れた霊に取りつかれた息子を持つ父親が、弟子達に「息子から悪霊を追放して欲しい」と願う物語があります。弟子たちは悪霊を追放することができませんでした。父親は息子をイエスのところに連れて行きます。イエスは息子から悪霊を追放しました。すると弟子たちが「なぜ、わたしたちはその霊を追い出せなかったのでしょうか」と尋ねます。イエスは「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできない」とはっきり答えました。「この種のもの」は、ギリシャ語で「ギノス」と言い、「出来事、成就、救いの出来事、人間が人間になる、育児、教育」などの意味です。つまり、救いの出来事、人間が人間になる、人間が存在する、人間が生きる、育児、教育の根底には祈りがある、祈りが根源にあって、救いの出来事が起こるというのです。
 ヨハネ福音書15章5節に「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」とあります。「祈り」は「プロスエウコマイ・繋がる、願望」です。神に繋がる、神への願望は私たちの存在の根源です。神への願望がなければ実を結ぶことはないというのです。豊かな実を結ぶためにイエスに繋がっていきたいと思います。