2020年5月24日 エレミヤ書1章1-10節 「召命と応答」

 与えられたテキストはエレミヤ書1章1-10節で、エレミヤが預言者として召命を受けた時のことが記されています。5節に「わたしはあなたを母の胎内に造る前から、あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に、あなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた」とあります。「あなたを知っていた」の「知る」はヘブル語で「ヤーダ」と言い、アモス書3章2節に「全部族の中からわたしが選んだ」とありますように、「選ぶ」という意味があります。「あなたを聖別し」も、「カーダシ」と言いますが、元来「選ぶ」という意味です。意訳すると、「わたしはあなたを母の胎内に造る前から、あなたを選んでいた。母の胎から生まれる前に、あなたを選び、諸国民の預言者として立てた」となります。「選ぶ」が繰り返されています。「神の選び」はエレミヤの信仰の大事な概念です。
 ガラテヤ4章8節に「ところで、あなたがたはかつて、神を知らずに、もともと神でない神々に奴隷として仕えていました。しかし、今は神を知っている。いや、むしろ、神に知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか」とあります。この「知る」は「選ぶ」という意味です。意訳すると、「しかし、今は神を選んでいる。いや、むしろ、神に選ばれている」となります。イエスは、ヨハネ福音書15章16節で「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと。」と言っています。信仰は神の選びで始まり、信仰の根源です。神は月足らずに生まれ、土の器に過ぎない者を一方的に選んでくださる。その神の選びを信じて、受け入れていく。それがエレミヤの信仰です。
2節に「主の言葉が彼に臨んだのは、ユダの王、アモンの子ヨシヤの時代、その治世の第13年のことであり、・・・」とあります。ヨシヤが即位したのは640年ですから、627年になります。時代的には、バビロン戦争に敗れ、補囚が起こる直前の混沌とした、巧みな政策と外交が求められた時代でした。エレミヤは神からイスラエルだけでなく、万国民の預言者として立てられたと言われ、神の召命と使命に、押しつぶされそうになって、頑なに拒絶します。神の言葉を主体的に聞き受け入れることが出来ませんでした。
 6節に「わたしは言った。『ああ、わが主なる神よ、わたしは語る言葉を知りません。わたしはただ若者にすぎませんから』」とあります。この「ああ」は「駄目だ、災いだ、不幸だ」と言う意味です。エレミヤは神の召命を喜んで受けいれたのではなく、「駄目だ、災いだ」と拒んでいます。それが神の召命と選びの構造です。エレミヤだけでなく、イザヤも、モーセも、ヨナもそうです。ヨナは神の召命を頑なに拒否し、逃げ出しました。ギデオンは酒舟の底に身を隠し拒否しました。神の召命と選びは、人を嘆かせ、葛藤をさせ、頑なに拒否させます。
しかし神の言葉は拒否されたからと言って、引き下がりません。7節に「若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ、遣わそうとも、行って、わたしが命じることをすべて語れ。彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて、必ず救い出す」とあります。エレミヤは神の召命と選びを受けて、葛藤しました。しかし、葛藤を乗り越えて、受け入れました。神の言葉を受け入れ、新しい歩みを踏み出す。ゼロから出発する。それがエレミヤの信仰です。
 モーセは同胞を虐待しているエジプト人に、激怒し、エジプト人を殺害しました。そのためにミディアンの地に逃亡し、羊飼いとして働いていました。その時、神の召命を受けました。エジプトへ行き、奴隷の苦役で苦しんでいるイスラエルの人々をエジプトから連れ出しなさいと命ぜられました。モーセは「ああ、主よ。わたしは生まれながら口が重く、人を説得することなどできません」と拒みました。すると、神は「一体、誰が口を与えたか。わたしではないか。さあ、行きなさい。このわたしがあなたの口と共にあって、あなたの語るべきことを教える。わたし必ずあなたと共にいる」と言います。この神の言葉はモーセの心の目を開かせました。モーセは、神の召命に答えて、エジプトへ行き、ファラオの前に立ち、イスラエルの民のエジプト脱出の道を開きました。神の召命はモーセを奮い立たせ、新しい出発をさせました。
9節に「主は手を伸ばして、わたしの口に触れ、主はわたしに言われた。『見よ、わたしはあなたの口に、わたしの言葉を授ける』」あります。「授ける」は「食べさせる」です。信仰は御言葉を食べることであるというのです。人は食事を摂らなくては生きていけないように、御言葉を食べなければ、究極的には生きていけないというのです。
 加賀乙彦さんは「宣告」の中で、「人は自分に基づくものではなく、向こう側から与えられる力によって生きる」と言っています。「一人の死刑囚がキリスト教を受け入れ、魂の救いを経験して、生涯を終えていきました。その事実は加賀さんの心を動かしました。加賀さんは「永遠の救いは、彼自身の中には無かったはずだ。彼はどこから得たのか?」と問います。究極的には、人は自分の中にある力ではなく、向こう側、神から与えられる力によって生きると言います。究極的な救いは、向こう側、神の側から与えられる。神はエレミヤに「わたしの言葉を食べよ」と言われます。マタイ福音書4章4節に「人はパンだけで生きるのではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」とあります。この神の言葉を信じて、神の言葉を食べて、希望と勇気をもって、難局を生き抜きたいと思います。