2020年6月21日 マタイ福音書4章18-25節 「召しに応えて」

 与えられたテキストはマタイ福音書4章18-25節です。ここには二つの物語、一つは、イエスの弟子になるペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネがイエスに従う物語です。もう一つは、さまざまな病気で悩む人々がイエスに癒され、イエスに従う物語です。4章18節から22節の「四人の漁師を弟子にする」と23節から25節の「おびただしい病人をいやす」の間に付けられている段落は本来ありません。マタイ福音書は二つの物語を並べて編集することによって、イエスに従うには多様性があることを伝えようとしています。弟子たちも、群衆も、彼ら一人一人は、イエスに従う動機や理由や従い方もそれぞれ違います。その違いを大事にすることが信仰の本質であるというのです。
24節に「人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々をいやされた。こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエスに従った」とあります。イエスに従った群衆は皆病気で悩み苦しんでいた人たちです。その苦しみと悩みから開放されたいという願いからイエスのところに来ました。彼らに特別な知識や学問があったわけではありません。自分を本当に解放し、救うことができるのはイエスを他にしてないと強い思いと期待です。それだけなのに、「イエスに従った」と言われています。つまりイエスに従うことは、特別な強い決意とか、覚悟とかを持つことではありません。ただ、イエスを他にして救いはないとイエスに期待し、イエスのあとついて行くことです。
19節に「イエスは、『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう』と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った」、22節に「この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った」、25節に「こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエスに従った」とあります。
 この「従った」は、ギリシャ語で「アケレウソス」と言います。「ア」は「同じ」、「ケレウソス」は「道」とい意味です。つまり「同じ道を歩む、ついてゆく、堅く結びつく、イエスの後ろについていく、イエスの背中を見失わないように歩んでいく」などの意味をもっています。本質的なことは、「わたしについて来なさい」と呼びかけられたように、イエスの後についていくことです。
10章5節以下に「十二人を派遣する」物語があります。9節に「帯の中には金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってならないと命じられた」とあります。パンも袋も金も持たずとは、近くにポストにハガキを投函するように出かけることを意味します。マタイ福音書は「イエスに従う」と言うと、重大な決断をし、大きな犠牲を払わなければと思いがちですが、違います。大な決意も悲壮感もありません。普段外出のように、イエスの後について行くことであるというのです。
渡辺和子さんは、「カトリックのシスターたちは実に明るく、喜びに満ちて、主イエスに従っている。その明るさがなくては、主に従うことはできない。勿論、いつも明るくいることは難しい。しかし、彼女たちにはその迷いや悩みを圧倒する明るさがある。イエスに従うことから、本質的な明るさ、喜び、感謝が与えられる。それはカトリックのシスターだけに与えられている特権ではなく、わたしたちにも与えられている」と言っています。
 18節に「イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのをご覧になった。イエスは、『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう』と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った」とあります。21節には「そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った」とあります。四人の弟子は、群衆のように悩みと苦しみの中からイエスのところに来たのではなく、イエスが彼らの日常の生活をご覧になって、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と呼びかけ招いておられます。
キリスト信仰を表す言葉に「召命」と言う言葉があります。「召す」は「呼び集められる」と言う意味です。金子みすゞの詩、「鈴と、小鳥と、それから私」に「みんなちがって、みんないい」とよく知られフレーズがあります。わたしたち皆、違っています。しかし、イエスに呼びかけられ、召されている点では共通しています。
 藤井孝夫先生は「信仰に生きるということは、遣わされていると信じて、生きることである」と言っていました。家庭、職場、学校で主から遣わされていると信じて生きることが、より信仰的であるというのです。
 イザヤ書46章3節に「わたしに聞け、ヤコブの家よ、イスラエルの家の残りの者よ、共に。あなたたちは生まれ出た時から負われ、胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの年老いる日まで白髪になるまで背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」とあります。イエスに従う信仰が語られています。必死になってイエスを掴まえ、離れないように頑張ることではありません。神が背負い担ってくださることを信じて委ねることです。詩編55編23節に「あなたの重荷を主にゆだねよ。主はあなたを支えてくださる。主は従う者を支え、とこしえに動揺しないように計らってくださる」とあります。「従う」は「同じ道を歩む、イエスの後について行く」ことです。神の約束の言葉を信じて委ねていきたいと思います。