与えられたテキストはマタイ福音書5章4節「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。」という言葉です。この言葉を聞く者は戸惑いを感じるのではないでしょうか?誰も実際に悲しんでいる人に、「幸いである」と言うことは出来ません。イエスしか言えない言葉ではないかと思います。
この「悲しむ」は、ギリシャ語「パンアセイン」と言い、愛する者を失った悲しみを言い表す特別な言葉で、「嘆き悲しむ」という意味です。創世記37章34節に「ヤコブは自分の衣を引き裂き、粗布を腰にまとい、幾日もその子のために嘆き悲しんだ。息子や娘たちが皆やって来て、慰めようとしたが、ヤコブは慰められることを拒んだ」と、サムエル記下19章1節には「ダビデは身を震わせ、城門の上に部屋に上って泣いた。王がアブサロムを悼んで泣いているとの知らせがヨアブに届いた。その日兵士たちは、王が息子を思って嘆き悲しんでいることを知った」とあります。ここに出てくる「嘆き悲しむ」が「パンアセイン」で、何をもっても癒されることの出来ない深い悲しみを表す言葉です。ちなみに、日本語の悲しいは、「しなねる、力が及ばない、何もすることができないというチカラナシ、甲斐ナシ」から来ていると言われ、人間の無力、虚無、絶望を意味すると言われます。癒されることのない深い嘆き悲しみ、無力感、絶望感にうちひしがれている人々は「幸いである」と言うのです。
なぜ嘆き悲しむ人々が幸いであるか?4節後半に「その人たちは慰められる」とあります。フランシスコ会訳聖書では「その人たちは慰められるであろう」と、岩波訳、塚本訳では「かの日に慰めていただくのは、その人たちだから」と、NEBでは「they shall find consolation」と、それぞれ未来形で翻訳しています。新共同訳は「慰められる」と現在形で訳し、必ず慰められる終末論的神の約束を意味しています。
「その人たちは慰められる」の「慰め」という言葉ですが、日本語の「慰め」は「ナグサム」と言い、「ナグ」は「和、やわらぐ、おだやか」、「サム」は、「進、進める」から「心がなごやかに静まる、心が晴れる。気がまみれる」という意味です。ギリシャ語では「パラクレーセーソンタイ」と言い、「パラ・傍ら、そばへ」と「クレーセーソンタイ・呼ぶ」、「傍に呼び、共にいる」という意味で、「励ます。力づける」という意味になります。意訳すると「その人たちは傍に呼び寄せられて励まされる」となります。
ヨハネ福音書14章16節に「わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつもでもあなたがたと共におらせてくださるであろう。それは真理の御霊である」とあります。ヨハネ福音書は「慰められる」を「助け主、真理の御霊」と言っています。イエスは十字架につけられ、弟子たちから取り去られますが、神は弟子たちを孤児とはしないために、傍に呼び、共にいてくださる方、助け主、真理の御霊、慰め主を送ってくださるというのです。
出エジプト記3章14節に「神はモーセに、『わたしはいる。わたしはいるという者だ』と言われ、また、『イスラエルの人々にこう言うがよい。わたしはいるという方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと』」あります。神は、「わたしはいる」という者で、何時如何なる場合でも、共にいて、あなたを傍に呼び寄せ、慰め、励ましてくださるというのです。
パウロは「わたしたちは神の慰めを与えられなければ生きられない存在である」と言っています。神が期待することは、どのような事柄に出遭って動揺しない、不動な心をもつ者になることではなく、また、強固な心を持ち、何事にも動揺しないで、勇敢に立ち向かって生きる者になることでもない。本質的なことは、自分の弱さや不安や恐れを持つ者であることを受け入れ、「わたしはいる」という神が傍に呼び、励まし、勇気づけてくださることを信じ受け入れることであると言います。
コヘレトの言葉12章1節に「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。『年を重ねることに喜びはない』と言う年齢にならないうちに。太陽が闇に変わらないうちに。月や星の光がうせないうちに。」とあります。歳を重ねて、虚無や絶望に陥らないために、若い時に、あなたの造り主に心を留めよと言うのです。この「心を留める」は価値観や考え方の転換を意味します。ビクター・フランクルは「大事なことは人生のコペルニクス的転換である」と言います。「人生(神)が何かを与えてくれることを期待するのではなく、人生(神)がわたしに何を期待しているかを問い、応えていく。そのコペルニクス的転換が人生を生き抜く力になる」と言っています。終末論的な信仰が嘆き悲しむ者の真の慰めであると言うのです。
詩編50編15節に「わたしを呼ぶがよい。苦難の日、わたしはお前を救おう。そのことによって、お前はわたしの栄光を輝かすであろう。」とあります。神はわたしたちが嘆き悲しみの中に置かれるとき、歯を食いしばって頑張ることを求めません。「わたしいるという方を呼べと言われます。神が喜ぶのは何事に出会っても動揺しない心ではなく、恐れや不安を感じ、真摯に神に慰めを求める心であるというのです。
詩編55編23節に「あなたの重荷を主にゆだねよ、主はあなたを支えてくださる。主は従う者を支え、とこしえに動揺しないように計らってくださる」とあります。世の中は恐れと不安に満ちています。しかし、神がとこしえに動揺しないように計らってくださると言います。「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる」。助け主である主イエスはいついかなる場合にも共にいるために、傍に呼び寄せ、慰めてくださいます。その信仰的事実を信じて、主に委ね、慰め、励まされて行きたいと思います。