2020年8月16日 マタイ福音書5章13-16節 「地の塩、世の光」

 「あなたがたは地の塩である。あなたがたは世の光である」のギリシャ語の原文には、「あなたがた」を強調するために、「ヒューメイン」という人称代名詞があります。また、「あなたがたは地の塩である。あなたがたは世の光である」の「ある」は、ギリシャ語で「エステ」と言い、現在形で、「事実の肯定」を意味します。イエスの事実の宣言です。言い換えれば、誰がなんと言おうと、今のあなたがたは地の塩である。今のあなたがたは世の光であるというのです。「あなたがたは地の塩となりなさい、世の光となりなさい」という命令や、「地の塩とならなければならない。世の光とならなければならない」という義務ではありません。また、「あなたがたは地の塩となるであろう。あなたがたは世の光となるであろう」という理想でもありません。あなたがたのありのままの姿を地の塩、世の光であるというイエスの事実肯定です。
1節に「弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた」とあります。イエスが「あなたがたは・・・」と呼びかけているのは、「弟子たち」です。弟子たちは、イエスが十字架にかかるとき、イエスを裏切り、見捨てます。また、マルコ福音書10章37節に「二人は言った。『栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください』」とあります。弟子のヤコブとヨハネはイエスが十字架を前に苦しんでいるとき、自分の利益だけを求める罪深い存在です。イエスはその罪深い弟子たちを「あなたがたは地の塩である、あなたがたは世の光である」と言って、肯定されるのです。ここにイエスの信仰と愛と赦しを見ることができます。
浅野順一先生は「神が『よし』と肯定してくれる信仰は、より本質的である。神は、自分がどんなに駄目だと思っても、駄目だと思わない。人から駄目だと言われても、神はよしと肯定してくれる。自分が駄目だと思っても、神は駄目だと思わない。人から駄目だ、駄目だと言われても、神は『よし』と肯定してくださる。その神の思い、神の言葉を信じるのが信仰である」と言っています。神は罪深い人間を「地の塩、世に光」として肯定してくださる。その神の言葉を受け入れるのが信仰であるというのです。
旧約聖書の士師記6章に出てくるギデオンはミディアン人の襲撃を恐れ、ぶどう酒を造る樽の中に身を隠し、マナセ族の中で最も小さい者、最も臆病な者であると呟いています。ところが、神は、そのギデオンに向かって、「大勇士よ、わたしはあなたと共にいる。立ち上がれ」と言うのです。神は、最も小さく臆病な者と告白するギデオンを「大勇士」と見ているのです。ギデオンは、神がそのように自分を見ていてくださる事実を知り、受け入れ、信じる信仰が力となって、ミディアン人と戦うために立ち上がることができたというのです。
モーセはヤーウェの神に出会い、エジプトで、苦役に苦しむイスラエルの人々を解放することを命じられました。すると、モーセは「わたしは全く口が重く、舌の重い者です。誰か、他の人をお遣つかわしください」と神の召命を拒みました。神の召命に相応しい者ではないと言うのです。しかし、神の見方は違います。神の目には、「モーセはイスラエルを解放する者である」と映っています。神は、モーセが自分をどう見ようと、イスラエルの人々をエジプトから引き出し、約束の地に導く者であると見ています。そして、モーセは自分をそのように肯定してくれる神を受け入れ、信じることによって、立ち上がることができました。自分の目や人の目に映る姿より、神に映った自分の姿が何よりも本質的であるというのです。
コリントの信徒への手紙Ⅱ4章18節に、「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」とあります。見えている現実だけでなく、見えていないもう一つの現実が大切であり、より本質的であるというのです。つまり、わたしたちがどのようであれ、イエスは「あなたがたは地の塩である。あなたがたは世の光である」と言うのです。その事実を信じ、その御言葉に立つとき、生きる力と勇気と希望が与えられるというのです。
13節に「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである」とあります。「塩」は、食べ物の味を生かすため、甘味を生み出すためには、欠かせません。また、塩が本来の働きをするたには、自分を隠し、見えなくすると言われます。「地の塩」の「地」は大地という意味で、私たちの生活を意味します。フィリピの信徒への手紙2章6節に、「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました」とあります。この世の生活の中に塩としてあることは、身を隠し、自分を無にして、人を生かすことを意味します。
14節に「あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである」とあります。「光」は、見えるところに置かれ、周りを照らし、輝きます。その意味では、地の塩とは全く異なっています。イエスはその違いが尊重されなければならないと言います。塩のように姿を隠し、無になっても、光のように自分を輝かしても、どちらにしても、自分と隣人が活き活き生きることが本質です。イエスはここでその事実を伝えています。神は、わたしたちがどのような者であれ、今のありのままを「あなたがたは地の塩である。あなたがたは世の光である」と言って、肯定してくださいます。イエスの言葉は福音であり、満ちあふれる神の恵みであります。そのイエスの言葉を受け入れ、新しい一歩を踏み出したいと思います。