与えられたテキストはマタイ福音書5章6節「義に飢え渇く人々は幸いである。その人たちは満たされる」であります。詩編146編に「いかに幸いなことか。ヤコブの神を助けと頼み、主なるその神を待ち臨む人。」と、イザヤ書19章25節に「幸いなるかな、わが民イスラエルよ。」とありますように、ギリシャ語の原典でも「幸いである」が文頭にあり、強調しています。例えば、岩波聖書では「幸いだ。義に飢え渇く人々は」と、文語訳聖書では「幸福(幸い)なるかな、義に飢え渇く者。」となっています。「幸い」はギリシャ語で「マカリオス」と言い、happyではなく、blessedで、神の祝福、神の幸いを意味します。つまり、この世の何ものにも勝る幸いを意味します。意訳すると「なんと幸いか。義に飢え渇く人々は。その人々は満たされる」となります。
この「飢え」は「crave、懇願する、切望する」という意味です。原文では、「燃えるように、熱烈に」という副詞があります。つまり、「燃えるように切望、懇願する」となります。「渇き」も「thirst after、渇望、熱望する」という意味です。燃えるような切望と熱望が繰り返されています。ここにイエスの信仰が表れています。つまり、義に対する熱烈な切望、懇願が本質的であり、信仰的であるというのです。
詩編42編1節に、「涸れた谷に鹿が谷川の水を求めるように、神よ、わたしの魂はあなたを求める。神に、命の神に、わたしの魂は渇く。」とあります。谷底の水を慕い求める鹿に、神の義を慕い求める人間を重ねています。アウグスチヌスは「わたしの魂は、神において憩うまで、永遠の平安を得ることはできません」と言っています。彼は青年時代に精神的に迷い、マニ教に凝って、長い魂の放浪を経て、遂に神に立ち帰って、神の義と平安を得ました。人間は本質的に真理、義を慕い求める存在であると言うのです。浅野順一先生は「来るべき御国において実現する神の義への熱烈な懇願と切望さが訴えであり、暴虐に苦しむ人々のために正しい裁きをしてくださる方、キリストを求める切実な叫びである」と言っています。人間の切実さと一途さを讃えている言葉であります。
詩編86編7節に「苦難の襲うときわたしが呼び求めれば、あなたは必ず答えてくださるでしょう。主よ、あなたの道を教えてください。御名を畏れ敬うことができるように、一筋の心をわたしにお与えください」とあります。この「一筋の心」は「右にも左にもそれることなく、一筋に生きる」ことを意味します。主イエスは何事があっても右や左に逸れることなく、一筋に生きる者の祝福を讃えています。
「義に飢え渇く人々は幸いである。その人たちは満たされる」の「満たされる」は、口語訳聖書では「彼らは飽き足りるようになるであろう」と、岩波訳聖書は「その彼らこそ、満ち足りるようにされるであろう」と、フランシスコ会訳聖書は「その人は満たされるであろう」と、未来形で訳し、将来の未来のこととして解釈しています。しかし、新共同訳は「その人たちは満たされる」と現在形に訳し、神の約束は必ず実現する。その確かさを強調しています。神の約束で、必ず実現するというのです。しかし、それは将来のことですから、信仰と忍耐が必要です。諦めないで待ち続けなければならなりません。実現することを信じて待望することです。
コリントの信徒への手紙Ⅱ9章25節に「競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちない冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです」とあります。パウロはキリストに出会うまで、「朽ちる冠」を目標にし、多くの労力を費やし、絶対化してきました。しかし、キリストに出会うことによって「朽ちない冠」を信じることができました。それからは、「朽ちない冠」を得るために節制をしたといいます。究極的には、朽ちない冠のために生きることがより本質的であるというのです。
フィリピの信徒への手紙3章13節に「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」とあります。「目標」はギリシャ語で「エスポス」と言い、「終わりから見て」という意味です。主イエスは、十字架と復活によって、終わりから見る究極的な目標を明らかにしてくださり、つまり、究極的目標を目指してひたすら走る者の幸いを明らかにしてくださいました。テサロニケの信徒への手紙Ⅰ5章16節に「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」とあります。究極的な目標であるイエス・キリストを見上げて「今」を生きることを勧めています。
マタイ福音書6章33節に「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」とあります。イエスの言葉を信じ受け入れた時、自分を義としようとする苦しみから解放され自由にされたといいます。まず神の義を求め、究極的な目標に向かってひたすら生きる者の幸いを語ります。主イエスは「なんと幸いなことか。義に飢え渇く人々は、その人たちは満たされる」と言って、新しい世界を示してくださいました。イエスの言葉を信じ、受け入れ、委ねていきたいと思います。