与えられたテキストはエルミヤ書29章4-14節です。エレミヤが、バビロンに連行されて行った捕囚の人々に宛てた手紙です。紀元前598年、バビロニアのネブカドネツァルはエルサレムを侵略し、征服しました。南ユダの王ゼデキヤや側近、役人、技術者、職人など、多くの者がバビロンに連行されました。エレミヤは捕囚の民に、家を建て、畑を耕し、結婚し、子どもを儲け、バビロンの平和を祈り、偽預言者や占い師に惑わされないように、落ち着いた生活をし、永住の決心をしなさいと書き送りました。
8節に「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。『あなたたちのところにいる預言者や占い師たちにだまされてはならない。彼らの見た夢に従ってはならない。彼らは、わたしの名を使って偽りの預言をしているからである。わたしは、彼らを遣わしてはいない。』」とあります。預言者や占い師は捕囚の民の弱さにつけ込んで、信仰的に惑わしました。彼らは「人生は不条理で、つまらない、徒労で終わる。人生はこんなものだと見限り、正しい者が苦しみ、悪しき者は栄える理不尽である。それが世の現実である、小さな者はどうすることもできない。長いものには巻かれる術しかない、絶望である」と教えました。エレミヤは偽預言者や占い師にだまされないで、主体的に生きるようにと言い、虚無や絶望に誘い込む偽預言者と戦いました。マタイ福音書18章6節に「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである」とあります。弱く小さな者を失望させ、落胆させることを厳しく戒めています。エレミヤは絶望と空虚に苦しんでいる人々に希望と勇気を与えることが、信仰者の使命だと言います。
10節に「主はこう言われる。バビロンに七十年の時が満ちたなら、わたしはあなたたちを顧みる。わたしは恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻す。わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである、と。」あります。エレミヤは、エルサレムが陥落したのは神の意志であり、捕囚も神の計画による。つまり、捕囚という不条理の中にも神の御心があると言います。「こんなはずじゃあなかった」という事柄の中に神の計画があるというのです。
ネブカドネツァル王はエルサレムを滅亡した後、バビロンに連行される者とエルサレムに残る者とを決定しました。バビロン行きを宣告された者は、捕囚の運命を呪い、神を恨んだのではないかと思います。ビクトール・フランクルは「それでも人生にイエスと言う。人生の全ての出来事に意味がある」と言います。エレミヤは。人生を導くのは神であることを信じ、不条理を受け入れるようにと言うのです。
エレミヤは捕囚の民に将来と希望がある。だが、70年が必要である。70年後には、バビロンから解放されてエルサレムに帰還できると神は約束している。神の約束を信じて、現実を受け入れ、家を建て、畑を耕し、種を蒔き、水をやり続けなさいというのです。カインはアベルの献げ物を顧み、自分の献げ物を顧みない神に怒りを抱き、アベルを憎み、殺害しました。カインは不条理を受け入れられることが出来ず、朽ち果てました。本質的なことは、不条理に絶望しない、見限らない、諦めないで、その不条理に打ち勝つ信仰と希望を与えられることです。
日野原重明著「死をどう生きたか」に、考古学者の千浦美智子さんのことが記されています。彼女は長女を出産した直後、直腸ガンが見つかりましたが、既に周辺のリンパに転移していました。研究者として海外で論文の発表が待っていました。学者として独り立ちし、母親として最高の幸せを感じていました。その時の出来事です。彼女はその現実を受け入れることができず、何も悪いことをしていないのに、理不尽だ、不条理だと、恨み、憤り苦しみました。しかし、やがて彼女は、夫の祈りに支えられ、不条理の現実を受け入れることができました。「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」とありますように、もう一つの現実を認め、どうにもならない不条理を受け入れ、信仰者として希望と勇気をもって短い生涯を生きることができました。
12節に「あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら。わたしに出会うであろう、と主は言われる」とあります。「わたしに出会う」は、「すべての道で主を見出す、主を認める」と言う意味です。バビロンという適地においてさえ神の導き、神の救いの計画を見出すことができる。善の中に善を見出すだけでなく、悪の中にも善を見出す。それが信仰だというのです。
エレミヤは、バビロンで希望を失っていた捕囚の人々に希望と生きる勇気を与えることが使命だと言います。勿論、わたしたちは預言者ではありません。ただの、一人の貧しい信仰者です。コリントの信徒への手紙Ⅰ1章28節に「神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を敢えて選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を敢えてえらばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を敢えて選ばれたのです」とあります。神は無力な者、無に等しい者を敢えて選び、人に希望と生きる勇気を与える者にしてくださいます。その信仰的事実を受け入れたいと思います。無力な無きに等しい存在ですが、他人に神の希望と勇気を指し示すことが使命だと信じ、受け入れていきたいと思います。