与えられたテキストはマタイ福音書6章21-26節です。24節に「あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感をもっているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい」とあります。「途中で早く和解しなさい」という言葉を考えてみます。やまばと学園長の長沢道子さんは、「今日、何事においても、二極化され、分断、分裂されていく流れの中で、立場の違う者同士が対話し理解し合い、和解の道を探ることは大切なことだ。勿論、安易な妥協はいけないけれども、互いの違いを尊重しての和解、共生が一番必要なことではないか」と言っています。
大江健三郎さんは、「人間は本当に和解が出来るのか」という質問に、「大変困難なことで、悲観的である」と答えています。「わたしが生きている間に和解の世界は出来ないと思います。君たちの働く未来に希望をかけます。この時代はよくないからと希望を失うのではなく、良くない現実をしっかり見つめて押し返す勇気を持とう」と言っています。石原慎太郎さんは、半世紀も前に、「亀裂」という著書で「人間関係に亀裂が入り、ばらばらに分裂され、人は孤立し、孤独と空虚に苦しむ時代が来る」と言っていました。
マタイ福音書4章21節に「ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網を手入れしているのをご覧になると、彼らをお呼びになった。この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った」とあります。「網」は「破れた網」という意味で、生活や人間関係の破れを象徴しています。「手入れする」は「繕う、修復する」という意味です。彼らは生活や人間関係の破れの繕いと修復のために召されたというのです。4章19節に「イエスは、『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう』と言われた」とあります。「人間をとる漁師」は、バラバラに分裂した関係を修復し、癒していくことを意味します。宮沢賢治は「雨ニモ負けず、風ニモ負けず」の中に、「東に病気の子どもがあれば、行って看病してやり。西に疲れた母あれば、行ってその稲の束を負い、南に死にそうな人あれば、行って怖がらなくてもいいと言い。北に喧嘩や訴訟があれば、つまらないからやめろと言い。」とあります。喧嘩や訴訟は人間関係の破れを意味します。つまり、弟子たちを破綻や破れを繕う和解の使者に召し、遣わすというのです。
21節以下で「殺してはならない」「怒ってはならない」「兄弟に『ばか』と言ってはならない」「『愚か者』と言ってはならない」とあります。これらの言葉は相手の存在を否定することを言葉で、いかなる理由があっても、言ってはならないというのです。
創世記2章18節に「主なる神は言われた。『人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう』」とあります。「彼に合う助ける者」は「向き合う存在」という意味です。人間は真に向き合う存在があってはじめて人間になる、向き合う者が存在しなければ、人間に成り得ない。神は向き合う存在として人間を創造されたというのです。しかし、アダムは罪を犯し、向き合う存在を否定しました。罪は「的を外す」と言う意味で、正しい関係の破れ、破綻を意味します。神は人間関係の破れを癒すために、独り子イエスを十字架につけられました。「和解」は一度離れた者が再び結び合う、再結合、つまり、ばらばらにされた者が、再び手を携えて生きること意味します。人間は本来共に生きるように創造されました。和解と共に生きるのが本来の道です。
25節に「あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい」とあります。この「和解する」は「カタ・上から下へ」と「アラッソー・変える」という二つの言葉からなっています。元来は「変える、取り替える、交換する」で、自己を絶対化しないで、相手の立場を尊重するという意味です。
フィリピの信徒への手紙2章2節に「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです」とあります。つまり、キリスト・イエスの心を心としなさいと言うのです。キリスト・イエスは神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しないで、自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になりました。自分の立場や自分の命を捨て、ご自分の命を十字架につけ、罪を赦してくださいました。そのキリスト・イエスの心に、心を合わせるというのです。
ローマの信徒への手紙14章15節に「あなたの食べ物について兄弟が心を痛めるならば、あなたはもはや愛に従って歩んでいません。食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはなりません。キリストはその兄弟のために死んでくださったのです」とあります。イエスはパウロを敵対視し、批判攻撃する者のためにも十字架に死んでくださったと言います。マタイ福音書5章45節に「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである」とあります。イエスの愛は正しい人の上にも、悪い人の上にも注がれているというのです。ここにイエスの十字架の愛による和解の信仰があります。イエスの十字架の見上げ、「和解しなさい」という言葉に受け入れ、和解を見出しましょう。この世の分裂と対立から救う道は、イエスの十字架の愛にあることを確信し、神の和解のメッセージを携えて出かけましょう。