2020年8月9日 マタイ福音書5章8節「心の清い人々は幸いである」

 与えられたテキストはマタイ福音書5章8節の「心の清い人々は幸いである。その人たちは神を見る」です。多くの場合、この言葉を喜びと自由を与える福音として聴くのではなく、「ネバナラナイ」という律法的言葉として聴いてしまいます。主イエスは福音、救い、望みを語っているのですが、福音、喜び、望みと聴くことはできないという現実があります。
芥川龍之介は35歳で自死しました。芥川が新約聖書を熱心に読み、枕元に新約聖書が置いてあったことは有名な話です。なぜ聖書を読みながら、自ら命を絶ったのか。なぜ聖書の中に福音と望みを読み取り、絶望に打ち勝つことが出来なかったのか、いろいろ議論されてきました。その子どもである芥川比呂志は「決められた以外のせりふ」というエッセイの中で、父龍之介のことを「父は非常に潔癖な人で、穢れを嫌い、純粋、無垢を求めた。清さを絶えず求めた。その求める清さに答えきれない自分に絶望していた」と書いています。主イエスの言葉を律法的に読み、清くなり得ない自分に絶望し、救いを見出すことができなかったというのです。
イエスの時代のパリサイ派の人々は自らを潔癖な群れ、清潔派だと言って、傲慢になり自らを誇っていました。「パリサイ」とは「分離する」と言う意味です。彼らは清さを求め精進し、努力し、その清さによって救われると信じ、他から自分たちを分離しました。彼らは市場に買い物に出かけると律法的に穢れた異邦人に触れたからと言って、必ず手とからだを洗ったといいます。身を清めなければならないというのです。衛生面ではなく律法的清さのために、異邦人を切り捨て、その存在を否定したのです。パリサイ派の倫理的な清さは、異邦人を裁き、交わりを断ちました。勿論、主イエスは清さにおいて、他を切り捨てることを教えられたのではありません。主イエスが求められる清さは赦し、共存、共有です。
マルコ福音書9章29節に「父親は言った。『幼い時からです。霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助け下さい。』。イエスは言われた。『できればと言うか。信じる者には何でもできる』。その子の父親はすぐに叫んだ。『信じます。信仰のないわたしをお助けください』」とあります。信仰あるものではなく、信仰のない穢れた者が救われるというのです。より本質的なことは清さを誇ることではなく、穢れた自分を赦し受け入れ、主に委ねることであるというのです。
詩編51編4節に「わたしの咎をことごとく洗い、罪から清めてください。ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください。わたしが清くなるように、わたしを洗ってください。雪よりも白くなるように。神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しい確かな霊を授けてください」とあります。清さは努力し、頑張って得えられるものではないというのです。「新しい確かな霊を授けてください」の「新しい」は、「上から」という意味です。心の清さは下から求めるのではなく、上から注がれるもの、神の力が注がれ、神がわたしたちの内に創造されるものであるというのです。「心の清い人々は幸いである」の「清い」は元来「皺やひだがない」という意味です。ダビデが告白しているように、心のひだや皺は自分の力では伸ばすことはきません。神がわたしたちの内に創造してくださることによった初めて可能です。わたしの内に創造してくださいという祈りです。そして、清さは与えられると信じる信仰です。自らの力で求めるのではなく、主に委ねることです。また、「清い」は「素直」という意味があります。素直に信じて委ねる人々は幸いであるというのです。
「その人たちは神を見る」の「見る」は本来「見るであろう」という未来形で、終末論的意味があります。生も死も越えている事柄です。コリントの信徒への手紙Ⅰ13章12節に「わたしたちは、今は、鏡におぼろげに映つったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくても、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる」とあります。この「見る」は「知る」という意味です。わたしたちは主イエスによって、赦しと愛の神を知りました。しかし、まだ完全に神を知ることはできませんが、完全に知るときが約束されています。そのときは顔と顔を合わせる終末論的な日です。その日を信じ希望をもって歩んで行きたいと思います。
詩編51編12節に「神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください」とあります。主イエスは心の清い人にならねばならないとは言いません。心の清い人は幸いであると信仰的事実を言っています。この「清い」は「皺や襞がない」という意味です。神は今、あなたの内に皺や襞のない清い心を創造しようと言います。その神と顔を合わせる終末論的日があるというのです。「心の清い人々」とは、その清さを創造してくれる神を見上げて生きる人々のことです。キリスト・イエスに目を注ぐとき、終末論的希望を抱いて生きることができるというのです。「心の清い人々は幸いである。その人たちは神を見る」というイエスの言葉を信じ受け入れ、委ねてゆきたいと思います。