与えられたテキストはマタイ6:5-8節で、表題にありますように「祈るときには」です。7節に「また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。」とあります。「くどくどと述べる」は、二つの言葉、「空しい」と「ことば」から成っています。「無駄な言葉の繰り返し、独り言」という意味で、本質的には神との信頼関係が失われていることを意味します。
旧約聖書の士師記時代は、イスラエルの国内に悪がはびこり、偶像礼拝や不道徳が盛んに行なわれ、悪人が富み栄え、正しい人が苦しむ、町や村が壊滅され、住民が虐殺されるなど、暗黒の時代でした。その原因は一人ひとりが神の前に立って、自己を検証し、罪を告白して、悔い改めることのない信仰的、精神的腐敗の結果であるというのです。
6節には「あなたが祈るときには、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなた父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる」とあります。「奥まった自分の部屋」は納屋や蔵のことです。戸を閉めれば、他の世界から遮断された、「我と汝」という神との霊的、人格的関係の世界を意味します。隠れたことを見ておられる神の前を生きることの本質を伝えています。
5節には「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。」とあります。この「偽善者」は「演じる者」という意味です。いつも人を気にし、良く見てもらおうと気遣い、人に認めら、人に気に入ってもらわなければと、人に合わせていく。そのために、自分を失い、心を滅ぼし、平安を得ることができない。そのような虚無的な世界ではなく、「我と汝」という神との人格的な関係、霊的な世界を持たなければならないというのです。
賛美歌241に「さはあれ神に、えらばれたる。聖徒は覚めて、あさにゆうに,みたまのみわざを、ひたすら求め」とあります。この「聖徒」の「聖」は本来「分ける、区別する」という意味です。つまり聖徒は、世俗的世界から分かたれた世界、神の前に立ち、神と共にいる世界を生きる人ことです。
8節には「異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存知なのだ」とあります。祈りは、それが無いと、生きていくことができないと思い、必死になって祈ります。それだけに、聞き入れなければ、自分の祈りが足らないと自分を責め、神を疑います。しかし、イエスは「熱心に祈らないからだ。あなたの祈りが足りない。」とは言いません。あなたが無くてはならないと思っていることが、本当に無くてならないものかを検証することが大事であるといいます。
詩編8編5節に「あなたが御心を留めてくださるとは、人間は何にものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは」と、詩編144編3節には「主よ、人間とは何ものでしょう」とあります。人間は本来自分のことが解らない存在であるといいます。ガラテヤの信徒への手紙4章8節に「ところで、あなたがたはかつて、神を知らずに、もともと神でない神々に奴隷として仕えていました。しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか。」とあります。知る神ではなく、知り尽くされる神、神は自分が自分を知るよりも自分のことをよくご存知であるというのです。
8節に「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。」とあります。神はわたしたちが願う前から必要のものを知っていてくださる。その事実を信じるのが祈りであるというのです。その意味では、祈りは自分の考えや価値観や見方を絶対視する罪から解放され、わたしたちを自由にしてくれます。
ダグ・ハマーショルドは「祈りは、神と人間の間に設けられた水路だ。祈りは神と繋がり、神と生ける関係ができることだ。そして、人は祈りの中で、自分自身が何であるか、自分は何のために存在し、生きているか知ることができる。自分だけに与えられた道を見出し、その道を進むことができる。自分の道を進もうとする時に、必ずそれを阻むものに出会い、行き詰まったり、苦しんだり、失望させられたりする。しかし、それらに打ち勝っていかなければならない。しかし、そのように強く生きようとしても、生きられない。間違いをする、過ちを犯す。しかし、祈りの中で、その間違いだらけの自分を赦していくことができる。自分が自分を赦すというよりも、神に赦されていく。神に赦されたという気持をもって、自分を赦していく。それが祈りだ」と言っています。祈りはわたしたちの生きる根源であり、原動力です。
聖書では、時間を表すのにクロノス、ホーラとカイロスという三つの言葉を使います。クロノスは一般にいう時、時間を意味します。カイロスはある意味を持つ「時」です。クロノスを横に流れる時間とするなら、カイロスは縦の時間、横に流れる時間を切断する縦の時です。その縦の時間・カイロスはとても大事で、神が定めた時です。暗闇の中に光が差し込んで来る時、全体の理解ができるように与えられる時です。その意味では祈りはカイロス・神の定めた時です。カイロスの祈りは神と対峙し、人を救い、人生を豊かにし、人に平安と命を与える時です。祈りは、神が「良し」と絶対肯定を与えてくれる時です。神の絶対肯定の言葉を聞き、赦され、受け入れ、委ねて行くことができる。それが祈りだと思います。