25節に「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。」とあります。「空の鳥をよく見みなさい」の「よく見なさい」は、二つの語、「エン・上」と「ブレフォー・見る」から成っています。つまり、「上へまなざしを向ける」です。「空の鳥」の「空」は「ウラノス・天」です。天、つまり神にまなざしを向けなさいという意味です。「思い悩む」は、原語は「分裂する」で、「心が分裂しバラバラになる」こと、つまり、この世のこと、地にしか、まなざしを注がないことから生じる心の歪みを意味します。だからイエスは空、上に、神に心を向けよというのです。
マタイ福音書14章22節-33節に、ペトロが荒れ狂う湖の上を歩く物語があります。弟子たちがガリラヤ湖を向こう岸に渡って行くとき、嵐に遭い、漕ぎ悩んでいると、イエスが湖上を歩いて近づいて来ました。弟子たちは幽霊だと恐れました。ペトロは「わたしに命じて、水の上を歩いてそちらに行かせてください」と言いました。イエスは「来なさい」と言われました。すると不思議なことですが、ペトロは湖上を歩き、イエスに近づくことができた。しかし、ペトロが足下の荒れ狂う湖を見たとたん、溺れ、沈んだというのです。ペトロが、イエスだけを見つめているときは、荒れ狂う湖の上を歩くことができた。つまり、水平ではなく、垂直に、上に、神にまなざしを向けると、荒れ狂う湖上を渡ることができるというのです。
26節に「空の鳥をよく見なさい。種を蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値があるものではないか」とあります。「鳥」は複数形で、「世のすべてのもの」の象徴です。言い換えれば「わたしたちの存在は世の何物よりも価値がある」と言われるのです。「価値がある」は「大事、大切、意義がある」という意味です。口語訳は「あなたがたは彼らよりも、はるかに優れた者ではないか」となっています。旧約では「ヤーカル」で、「わたしの目にあなたは価高く、貴い」(イザヤ43:4)。「それらは極めて良かった」(創世記1:31)と訳されています。
イザヤ書43章も創世記1章の創造物語も、バビロン捕囚時代に書かれたと言われます。イスラエルの民が補囚で、アイデンティや存在価値を見失って、退廃していました。その捕囚民を神は「価高く、貴い、極めて良かった」と肯定しているのです。つまり、上の神にまなざしを向けることによって、神の肯定、新しい自己を発見するというのです。
カトッリック教会の晴佐久昌秀司祭は、「誰でも、赤ちゃんの時、母親に抱かれて、言われた『おお、よし、よし』を存在の原点にしている。大人なると、すっかり忘れて、当たり前のように生きているけれど、どの人も赤ちゃんの時、『おお、よし、よし』と肯定されたからこそ、今の自分を肯定し、世界を肯定して生きて来られたし、生きることができる。今、天を見上げると、神の良し、神の肯定が見えてくる。母親ではなく、神のよし よし、極めて良かったという神の肯定を受け入れることができる」と言うのです。
28節に「なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように注して見なさい」とあります。この「注意して見なさい」は、「完全に」と「学ぶ」の二つの言葉から成っています。この「学び・マンサノー」は、「マセテース・弟子、弟子になる」という意味です。「弟子になる」は、最初の弟子たちが、「直ぐに、網を捨てて、従った」とありますように、主に委ねることを意味します。つまり委ねることを学びなさいという意味です。
30節に「今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか。信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』。『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それらはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。」とあります。主は必要なことは全部ご存じであるから、主に委ねなさいというのです。「思い悩む」は、「縛られる、固執する、しがみつく」などの意味もあります。ヨハネ福音書では、イエスは弟子たちを「わたしにしがみつくな」と励ましています。弟子たちは、手を離すと、生きていけなくなると恐れてしがみついていました。しかし、イエスは、手を離しても、大丈夫だ、主の支えがある。主の支えを信じて、自由になることを勧めています。その真理を野の花から学びなさいと言われるのです。
林久美さんは重度脳性小児麻痺で、動くことも、食べることも、しゃべることも、文字を書くこともできません。家族が彼女の目で合図する文字を拾い、詩ができました。「台風の次の日」という詩があります。「青柿が落ちています。青い葉っぱが散っています。もう花の終わったダリア。今真っ盛りのホーセンカ。これから花をつけようとしているコスモス。みんなみんな倒れています。大荒れに荒れた庭。でもモミジの木の根元に、咲いたばかりのサフランに似た白い花。命は風よりも強いのだなぁ。トントン トントン どこの家からも金槌の音が聞こえてきます。」。脳性小児麻痺で生まれたこと、身体の機能の全てを失ったことを「台風に喩えています。台風で、全部倒れたが、不思議にも、わたしは立っている。神が立たせて下さっている。話すことも、書くことも、奪ってしまった。だけれど、聞くこと、みること、詩を作ることを残してくださったことを感謝し、神を信頼し、委ねていくと言うのです。「神が置いてくださったところで、咲きます。仕方がないと諦めではなく、咲くのです。咲くと言うことは、わたしは幸せだと言うことを、示して生きることです」。人間の存在は、自分を超えた神によって支えられ、愛されている。その真理を信じ、受け入れ委ねて行きたいと思います。