与えられたテキストはコリント信徒の手紙Ⅱ1章3-11節です。苦難の神学、つまり、苦難の意味について記しています。使徒言行録9章15節に、「すると、主は言われた。『行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。わたしの名を伝えるためにどんな苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう』」とあります。パウロはキリスト者になってからの30数年の生涯は苦難の連続でした。苦しむためにキリスト者になったようなものです。
4節には「神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めて下さるので、わたしたちも神からいただいた慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができる」と。6節には「わたしたちが苦しい目に遭うとするなら、それは、あなたがたが慰められ救われるためです」とあります(フランシスコ会訳)。パウロは死ぬ思いをする程の苦難に出遭いました。その苦難の中で、ヨブが「なぜ、義しい者が苦しむのか」と問うたように、苦難の意味について考えてきた。そして、苦難は苦しみに遭っている人々の慰めと救いのためであるという信仰に至ったというのです。
ロゴセラピーを生み出したビクター・フランクルは「苦しみの意味を見出す人は、いかなる苦しみにも耐えることができる。苦難の意味こそが人間を生かす力である。苦しみに意味を見出す時、苦しみが和らげられるだけでなく、苦しみを乗り越えることができる。苦難を喜びへ変えることさえできる」と述べています。パウロも、今出遭っている苦難には苦しみ出会っている人を慰める意味があると言うのです。
ヘブライ人への手紙5章7節に「キリストは肉において生きていおられた時、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、ご自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました」とあります。イエス・キリストは苦しみを教師とし、信仰の従順を学ばれたというのです。
三浦綾子さんの作品の「道ありき」や「塩狩峠」は多くの人々に読まれ、特に苦難の中におかれている人々の慰めになっています。また、多くの人々が三浦綾子さんの作品を通して教会に導かれ、信仰に導かれました。夫の光世氏は「なぜそのような作品が生まれたか?三浦綾子さんが苦難の中に置かれたからである。苦難の中から作品は生まれた」と述べています。三浦綾子さんは「病気の問屋」と言われるように、次から次へと病気になられました。若い時には結核と脊髄カリエスで13年間も寝ったきりの生活を送られました。それから、へルピス、大腸ガン、パーキンソン病を患いました。その苦難の連続の中で執筆を続けました。三浦綾子さんの作品は、イエスが苦難を教師にされたと言うように、苦難の中から生まれたといいます。「神は、あらゆる苦難の中で慰めてくださる。それは、苦難の中にいる人々を慰めるためである」とありますように、三浦綾子さんの苦難は人を慰めるための苦難であったということができます。詩編119編71節に「苦しみにあったことは、わたしにとって良いことです」とあります。だからと言って、苦難は求めることはないと思います。誰でも苦難に遭わせないでくださいと祈ります。それが自然です。しかし、祈っても、不条理、理不尽な苦難に出遭います。ルツ記のナオミは、飢饉のために、生まれ育ったベツレヘムから、難民のように、夫と二人の子ども共にモアブに避難します。そこで、夫エリメレクと二人の息子が亡くなりました。「もはやわたしをナオミ(喜び)と呼ばないで、ラマ(苦しみ)と呼んでください」と言います。ルツ記は、ナオミが夫と二人の息子を失う不条理な苦難の人生を、どのように生きるかを記しています。苦難に出遭った時、苦難をどのように受け止めるか。それを忌まわしいものとして忌避し、運命と呪って諦めるか。逆に、その苦しみに深い意味を見出して、苦しみの中から、神の真実を発見していこうとするか、という問題です。パウロは、苦難を忌まわしいものとして忌避するのではなく、神から与えられたものとして受け取っています。
8節に「アジア州でわたしたちが被った苦難について、ぜひ知っていてほしい。わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みを失ってしまいました。わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。神は、これほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。わたしたちは神に希望をかけています。」とあります。苦難の中で、自分を頼りするのではなく、神を頼りにすることを学んだといいます。神は苦難から救ってくださったし、また、救ってくださるでしょう。これからも救ってくれるにちがいないと希望を与えられた。苦難に出会い、真理と終末論的な希望を知り、信じるようなったというのです。
フィリピの信徒への手紙4章12節に「わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。わたしを強めてくださる方のお蔭で、わたしにはすべてが可能です」とあります。神の慰めと希望を授かって、苦難の中に置かれている人々に神の慰めと希望を指し示す者にしていただきましょう。