与えられたテキストはマタイ福音書10章26-33節です。ここには「恐れてはならない」という言葉が三回出てきます。26節に「人々を恐れてはならない」、28節に「体を殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな」、31節に「あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな」とあります。この「恐れることはない」という言葉は、聖書中に何回もでてきます。例えば、申命記1章29節に「わたしはあなたがたに言った『うろたえてはならない。彼らを恐れてはならない』」と、3章2節に「主はわたしに言われた。『彼らを恐れてはならない』」と、イザヤ書7章4節に「落ち着いて、気をつけて、静かにしていなさい。恐れることはない」と、ルカ福音書1章3節に「恐れるな。ザカリヤよ。あなたの祈りは聞かれた」と、ルカ福音書1章30節に「恐れるな。マリヤよ。あなたは神から恵みをいただいた」と、ルカ福音書2章10節に「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」と、ルカ福音書5章10節に「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」と、ルカ福音書12章32節に「小さな群れよ、恐れるな。」とあります。聖書には「恐れることはない」という言葉が頻繁に使われており、イエスの信仰を表す重要な言葉の一つであると思います。
しかし、この「恐れるな」という言葉はイエスの信仰にとって重要ではないという人々がいます。佐古純一郎先生は「パウロが『十字架のキリスト以外のキリストを知るまい』と言って、イエスの具体的な生涯について何も述べていないように、信仰にとって、イエスの言葉、行動、教えは重要ではない、罪の許しの十字架の贖い信仰で十分であり、十字架がイエスの信仰の中心である」と述べています。それに対して、井上洋治神父は「十字架の贖い信仰では不十分で、イエスの生涯、教え、言葉、行いを見なければならない。イエスの救は、十字架だけでなく、イエス・キリストの生涯、生き方、教え、言葉、病人や収税人を愛した愛、それらを抜きにして考えることはできない」と言っています。その意味では、イエスの恐れからの解放は、イエス信仰の本質を言い表していると思います。
イエスは「恐れるな」と言いますが、道徳や戒めではありません。弱くて意気地のない自分を克服して強くなれという教訓でもありません。希望と勇気を与えるイエスの福音です。
26節に「人々を恐れてはならない。覆われているもので現わされないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである」とあります。主の復活が証しているように、終末論的には正義や真理が勝利するという信仰です。ヨハネ福音書16章23節に「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい、わたしは既に世に勝っている」とあります。イエスは終末論的勝利を信じる信仰を明確にしています。
ペトロの手紙Ⅰ1章24節に「人は皆、草のようで、その華やかさはすべて、 草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない」とあります。人間はどんな力を持ち、権力を有しても、神の被造物、造られたものであり、有限な存在である。永遠なるものは神ご自身である。わたしたちは世に属すのではなく、世から神に選ばれた者であり、神に属するものであるというのです。
マタイ福音書10章30節に「あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている」とあります。神はわたしを知り尽くし寄り添ってくださいます。創世記1章31節に「神はお造りなったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」とあります。わたしたちを絶対肯定してくださっています。詩編27編10節に「父母はわたしを見捨てようとも、主は必ず、わたしを引き寄せてくださいます」とあります。神が創造者として最後まで責任を負ってくださいます。「だから、恐れるな」とあります。神の絶対肯定と約束を信じ、恐れから解放されて生きる道を与えてくださいます。
イザヤ書7章9節に「信じなければ、あなたがたは確かにされない」とあります。アハズ王はシリヤ・エフライム戦争で、敵軍にエルサレムが包囲され、動揺し、慌てふためいとき、預言者イザヤが伝えた言葉です。「確かにされる」はヘブル語で「アーマン」と言って「立つ」と言う意味です。信じなければ、立つことが出来ないというのです。信じることよって、主体的に立たされ、確かにされるというのです。
「信じる」ということは、言葉を換えて言えば、イエスだけを見上げるということです。エレミヤは「もし、あなたが一心にわたしを尋ねるならば、わたしに会える」と言っています。「一心」は「一つの心、心を尽して」という意味です。「恐れ」はギリシャ語で「フォボス」と言い、二心という意味です。つまり、同時に二つのもの、イエスと世の力とを見ることです。言い換えれば、恐れからの解放と救いは、一心で、イエスを見つめることから生まれるというのです。ペトロがイエスだけを見つめているときには、海の上を歩くことが出来ました。しかし、イエスから目を離し、足元の荒波を見たとたん、海の中に沈み、溺れたと言います。
マタイ福音書6章33節に「何を食べようか』、『何を飲もうか』、言って、と思い悩むな。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」とあります。今、わたしたちを取り巻く社会は。コロナ禍で不安と恐怖の時代ですが一心に、一つの心で主イエスを見上げて歩んでいきましょう。