2021年2月28日マタイ福音書11章28-30節 「重荷を負う人は」

 与えられたテキストはマタイ福音書11章28-30節です。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」。岩波訳は「私のもとに来なさい。あなたたち、労し、重荷を負ったすべての者たち。そうすればこの私が、あなたたちに安らぎを与えよう」と訳されています。原文では「この私」が強調され、イエスの疲れた者、重荷を負う者に寄り添う熱い思いが強く表されています。
出エジプト記14章14節には「あなたはほかの神を拝んではならない。主はその名を熱情といい、熱情の神である」とあります。荒れ野で、飢えと渇きで、苦しんでいるイスラエルを救い出した神は熱情の神であるといいます。イザヤ書9章6節には「今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱情がこれを成し遂げる」とあります。熱情の神はイスラエルの救いのために、ひとりのみどりごを犠牲にするほど熱い思いをもち、イエスは疲れた者、重荷を負う者の救いのためなら、どのような犠牲も厭わない熱い思いもった熱情の神であるいうのです。
この「疲れている」は「疲弊する、弱る、労苦困憊する」、「重荷」は「やっかいな、重責、苦難」という意味です。「負う」は、受け身形で「負わせられる」で、不条理な苦難や虚無を意味します。「休み」は、竪琴の弦を緩める意味です。イエスは重荷を負わされ、弱り果て、傷ついた者に、寄り添い、癒し身も魂も新しくされるというのです。
29節に「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」とあります。「安らぎ」は家畜が一日の労働が終え、軛を外され、与えられる「休息や安息」を意味します。軛は「車編とおさえる」で、「窮屈、苦しい、厳しい」を意味します。軛はだれも負いたいと思いません。しかし、イエスは「わたしの軛を負いなさい。わたしの軛は負いやすい」と言います。「負いやすい」はギリシャ語で「クレーストン」と言い、「やわらかい、良い、有効、役立つ」という意味です。意訳すると、「わたしの軛はあなたに役立つ」となります。
軛は重い荷物を運ぶためにや土地を耕すために必要です。同じ様に、人生の重荷、苦難を受け入れるために、役立ち必要であるというのです。エレミヤ書4章3節に「あなたがたの新田を耕せ、いばらの中に種をまくな」とあります。軛はいばらの荒れ野を深く耕し、種を蒔くために必要であるというのです。
フィリピの信徒への手紙1章12節に「兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい」とあります。パウロは捕らえられ獄に入れられました。だれもがパウロの福音伝道は挫折したと思いました。しかし、パウロは、かえって、否、むしろ、福音の前進になったというのです。コリントの信徒への手紙Ⅰ12章9節に「すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われた。」とあります。神の力は弱さと苦難の中でこそ完全に発揮されるというのです。
30節に「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」とあります。この「荷」は、ギリシャ語で「ポールトス」と言い、「人生の苦難、負いきれない重荷、不条理」を、「軽い」は「光、輝き、光明」を意味します。言い換えると、逆説ですが、重荷と苦難は軽く、光、輝き、光明であるというのです。ローマの信徒への手紙5章3節に「神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇ります。わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」とあります。苦難こそ希望だというのです。神の愛が注がれている。わたしたちは軛と苦難を負うとき、キリストと交わることができ、キリストの十字架によって、重荷と苦難をキリストの軛と解釈し、受容することができるというのです。
ある方は重荷を負わされ、不条理な人生を送りました。最初の子は、先天的心臓疾患で、2歳で亡くなりました。次の子も心臓疾患もって生まれ、高校生のとき突然死で亡くなられました。そして、彼女自身もALS・筋萎縮性側索硬化症という難病に冒されました。ALSは全身の筋力を失い、呑み込むこともできず、呼吸も出来なくなって、亡くなっていく難病です。彼女は人工呼吸器の電源が外れているという事故で、亡くなりました。人工呼吸器を付けていますから、声が出ません。手書きで、会話します。ある時、「苦難を肥やしに生きよと慰めてくださる主に従って行きます。重荷と苦難をわたしの軛と受け入れようと思います」と記されていました。彼女は、何時も人を慰め、励まそうとされていました。自分に出来ることはないかといつも探し、限られた時間の中を精一杯生きようとしていました。そういう生き方が、イエスの信仰によって、可能であることを彼女は示してくださいました。
「軛」は、パレスチナでは頑丈な横木に二つのくぼみをつけ、二頭並べて使います。一つのくぼみは自分が、もう一つのくぼみにイエスが繋がり、自分では運びきれない人生の重荷と苦難を運ぶことができると言うのです。詩編118編5節に「苦難のはざまから、主を呼び求めると、主は答えてわたしを解き放たれた。主はわたしの味方、わたしは誰を恐れよう」とあります。イエスは「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのところに来なさい。休ませてあげよう」と言って、一人ひとりに、寄り添ってくださいます。だれにも寄り添ってくださるイエスを支えにして生きていきましょう。