パウロはユダヤ人から迫害を受け、捕らえられ、ローマの総督やサンヘドリンという議会の前で、取り調べられ、裁判を受けました。パウロはローマの市民権を有し、ローマで皇帝の裁判を受ける権利を有していました。その権利を行使して、ローマに行くことにしました。イスラエルのカイザリヤ港から商業船に乗せられ、ローマに送られました。その途中で「エウラキロン」という台風に会い、船は座礁し、パウロ達はマルタ島に打ち上げられ、辛うじて助かりました。マルタ島に季節風のおさまる春まで留まり、おさまったところで、別の船に乗せられ、マルタ島から、ローマに向かいました。シチリア島のシラクサに寄り、イタリア半島の最南端レギオンに寄り、更に北上し、プテオリという港町に着きました。パウロは大変驚かされました。プテオリに教会があり、クリスチャンの人々が、パウロを歓迎してくれたからです。プテオリはローマから2百キロも離れた、辺鄙な町です。そこにキリスト福音が伝わっていたのです。
パウロは、異邦人の福音伝道のために、神から選ばれたという信仰がありました。小アジア、マケドニア、ギリシャに福音伝道に行き、教会を生み出しました。パウロの関わりのない教会は考えられませんでした。ところが、プテオリにはキリストの福音が伝えられていたのです。パウロはこの事実に驚き、心打たれ、神の前に謙遜になりました。
箴言19章21節に「人の心には多くの計らいがあるが、主の御旨のみが実現する」とあります。パウロは福音伝道と宣教には、誰もが予想できない神の導きがあることを認識させられ、神の不思議な導きを受け入れるのでした。
静岡の茶畑の中に、小さな溜池があります。お茶の木に水をやるためです。その池に川とつながっていないし、誰かが魚を取ってきて、放したのでもないのに魚がいるのです。どうして魚が住むようになったか、不思議な現象です。事実かどうか分かりませんが、魚の卵が鳥に足について、運ばれたのではないかと言われます。真に不思議な出来事です。そういう全く予期しない不思議な出来事が信仰の世界や教会形成の過程に起こるというのです。
以前下関の梅光女学院に勤めていましたとき、近くの教会を手伝ったことがあります。あるとき、信仰的にも、経済的にも教会の中心的な役割を担ってきた方が、横浜に転居しなければならなくなりました。皆教会は立ち行かなくなるのではないかと心配しました。ところが、全く不思議なことですが、暫くすると、東京から一組の夫婦が引っ越しこられ、転入会されたのです。その夫妻は引っ越しされた方と同じように、否、それ以上に教会を支え仕えて下さいました。教会は滞ることなく、礼拝や福音伝道を続けることが出来、不思議な神の導きを経験しました。信仰の世界には人間の思いを遥かに超えた神の御旨があるという事実を証してくださいました。
列王記上17章2節に「主の言葉がエリヤに臨んだ。『ここを去り、東に向かい,ヨルダンの東にあるケリトの川のほとりに身を隠せ。その川の水を飲むがよい。わたしは烏に命じて、そこであなたを養わせる。』。エリヤは主が言われたように直ちに行動し、ヨルダンの東にあるケルト川のほとりに行き、そこにとどまった。数羽の烏が彼に、朝、パンと肉を、また夕べにも、パンと肉を運んで来た。」とあります。預言者エリヤの物語です。エリヤはアハブ王から迫害を受け、命を狙われました。神はエリヤに「ヨルダン川の東にあるケリトの川の岸辺に身を隠せ。わたしは烏にあなたを養わせる」と約束しました。約束通り、数羽のカラスが朝、パンと肉を、また夕べにも、パンと肉を運んできた。それでもってエリヤは救われたというのです。カラスに養われることなど常識では考えられないことです。しかし、神はエリヤには想像出来ない手立てで、エリヤを養い導かれ、不思議な御業をなさるというのです。
使徒言行録28章13節に「ここから海岸沿いに進み、レギオンに着いた。一日たつと、南風が吹いて来たので、二日でプテオリに入港した。わたしたちはそこで兄弟たちを見つけ、請われるままに七日間滞在した。こうして、わたしたちはローマに着いた。ローマからは、兄弟たちがわたしたちのことを聞き伝えて、アピイフォルムとトレス・タベルネまで迎えに来てくれた。パウロは彼らを見て、神に感謝し、勇気づけられた」とあります。誰がプテオリにキリストの福音を伝えたか分かりません。人間の働きが重要ではなく、神がキリストの福音を運ばれたという事実が大事だというのです。
ローマの信徒への手紙10章14節に、「ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。『良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか』書いてあるとおりです」あります。イザヤ書の言葉を引用して、福音伝道の大事さ、信仰にとって命だといいます。コリントの信徒への手紙Ⅰ15章58節に「わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです」とあります。伝道のために自分を捨てて、労苦しなければならない。労苦を尽くして、後は、神に委ねることが本質であるといいます。魚の卵が鳥の足について運ばれ、池に住み着く。タンポポの種は、風に運ばれて、思っても見ないところで花を咲かせます。神は不思議な御業をもって導かれます。神の真実を信じ委ねて、神から託されたことに応えた日々歩んでいきたいと思います。