2021年1月24日 マタイ福音書10章16-23節「見よ、イエス・キリストを」

 与えられたテキストはマタイ10章16-23節です。イエスは、群集が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれ、12人の弟子たちを呼び寄せ、彼らを派遣しました。16節に「わたしはなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。人々を警戒しなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるからである。また、わたしのために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証しをすることになる。引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である。」とあります。イエスの弟子たちに贈る「はなむけ」の言葉です。「はなむけ」は「馬の鼻を行くべき方向に向ける」という意味です。イエスは、弟子たちがの生きて行くべき方向と道を示して、弟子たちを遣わされたというのです。
無教会の矢内原忠雄が東大の学長のとき、卒業式の式辞で、この聖書の言葉を引用し、「諸君を社会に送り出すのは、ある意味において、狼の群れの中に羊を入れるような感じがする」と述べました。すると、「我々を狼呼ばわりする東大の学長は何も者だ」と反発が起こりました。それが原因で、矢内原は東大の学長を辞任することになりました。しかし、真実は、「あなたがたの出て行く社会は、非常に激しい競争社会で打算的で、自分の利益だけを求め、強い者が弱いものを喰い殺してしまいそうな社会だ。だからそこ、あなたがたは、この世の風潮に飲み込まれないように。正義や愛や真理のために、勇敢に闘う精神をもって出て行って欲しい」と述べたのです。矢内原の真意は理解されませんでした。矢内原がキリスト者であったから、反発、批判を受けと言われています。矢内原事件は、キリスト者が誠実にこの世を生きるとき、迫害や攻撃に出遭う事実を伝えていると思います。
ヨハネ福音書15章18節に、「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである。『僕は主人にまさりはしない』と、わたしが言った言葉を思い出しなさい。人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたを迫害するだろう。」とあります。弟子たちが遣わされる世は、イエスを拒絶した世です。その世を相手にするのですから、迫害を受けるのは当たり前であるというのです。イエスは、その事実を知っておられたので、このような言葉を「はなむけ」として送ったのだと思います。
マタイ福音書10章16節の「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ」は、原文には、文頭に「見よ」という言葉があります。意訳すると、「見よ、わたしはあなたがたを遣わす。・・・」となります。「見よ、イエスを、イエスに目を注ぎなさい」というのです。
「わたしはあなたがたを遣わす」ですが、ギリシャ語では、動詞の変化で主語を表わし、主語はありません。しかし、強調するとき、主語を付けます。ここにはギリシャ語の「エゴー」、「わたし」があります。「わたし、イエスご自身が遣わす」が強調されています。
ヨシュア記1章9節に「あなたがどこに行っても、あなたの神、主は共にいる」とあります。イエスはわたしたちがどこに遣わされようと、どこに行こうと、どこに置かれようと共にいてくださり、寄り添ってくださるというのです。
「狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、ヘビのように賢く、鳩のように素直になりなさい」とあります。この「賢い」は「敏捷、逃げる」と言う意味です。23節に「一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい」とあります。戦うのではなく、迫害を受けたら、逃げたらよい、他の町に行ったらよい、そこでイエスの恵みを語り続ければよいというのです。イエスの自由と寛容さを読み取ることができます。「鳩のような素直になりなさい」の「素直」は「逆らわない、受容する」と言う意味です。起こった事態に逆らわないで、受容するというのです。止揚学園の福井達雨先生は「負けいくさにかける」というエッセイで、弱さに徹する恵み、勇気、自由について書いておられます。逆らわないで受け入れ受容することが真の自由と勇気を生むというのです。
18節に「わたしのために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証しをすることになる。引き渡されるときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である。」とあります。イエスは思い煩いや取り越し苦労から解放され、自由と喜びが与えられるようにといいます。フィリピの信徒への手紙4章11節に「わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。わたしを強めてくださる方のお蔭で、わたしにはすべてが可能です」とあります。パウロはイエスの言葉に従った結果として、恵みと自由を与えられたといいます。この世を生きるのは大変難しい時代です。「わたしを強めてくださる方のお蔭で、わたしにはすべてが可能です」という自由と勇気を与えてくれる御言葉に支えられ生きていきたいものです。