2021年1月3日 ルカ2章25-32節 テモテⅡ4章6-8a節 「主を見上げて」

 与えられたテキストはシメオンの物語です。ヨセフとマリアが幼子イエスを献げようと神殿に連れてきました。そこにいましたシメオンが幼子イエスを抱き上げ、「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです」と神を讃えました。この「去らせてくださいます」は「逝去」の「逝く」という意味です。原語は「下から上に帰る」という意味で、「神よ、今、わたしを召してください」となります。「安らかに」は「喜んで」と言う意味です。意訳すると「神よ、あなたは今、わたしに死を与えてくださいます。わたしは喜んで受け入れます」となります。「死を喜んで受け入れる」と言いますが、それは大変難しいことです。アルフォンス・デーケン神父は、「死への準備教育」という著書を出版しています。パウロは死を最後の敵と言い、三浦光世さんは「死ぬという最後の仕事」と言っています。死は誰にとっても難しい問題で、最後に残された課題であるということができます。しかし、シメオンは、「心は平安で満ちています。上へ帰るように、死の嵐の中を平安のうちに逝くことができます」と言います。このシメオンから信仰の本質である真の平安を学ぶことができます。
テモテへの手紙Ⅱ4章6節に「世を去る時が近づきました。わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。」とあります。この「去る」はシメオンの言葉と同じで、「逝く」という意味で、「死に逝く時が近づきました。今や、義の栄冠を受けるばかりです」となります。この「栄冠」は、マラソンの優勝者に与える月桂冠のことです。勝利と褒賞の象徴です。パウロは死を前にして、喜びに満ち溢れ、戦いを立派に戦い抜き、走るべき行程を走り抜き、信仰を守り通したというのです。言い換えれば、歩んできた人生が神に受け入れられ、忠実な僕と是認されたというのです。
8節に「正しい審判者である主が、かの日にそれを(義の栄冠)をわたしに授けてくださる」とあります。「審判者」は、ギリシャ語で「クリテース」と言い、「評価する、是認する、認める」という意味です。「正しい」は、「デカイオス」と言い、「憐れみ深い、罪を許す」と言う意味です。つまり、イエス・キリストだけが唯一の正しい審判者であるというのです。
コリントの信徒への手紙Ⅰ4章3節に、「わたしとっては、あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません。わたしは自分で自分を裁くことをしません。わたしを裁くのは主なのです。ですから、主が来られるまでに先走って何も裁いてはいけません。」とあります。この「裁く」はギリシャ語「アナクリノー」と言い、「評価する、判断する」と言う意味です。パウロは「自分で自分を評価しない」と言います。神谷恵美子さんは「判断中止、評価猶予、敗北と勝利とを、あなた自身で判断、評価しない」と言われます。パウロは「主が来るまで先走って裁いてはいけない(評価、判定)。自分で自分を評価するのではなく、神の評価に委ねる。主は、その日にそれを(義の栄冠)わたしに授けてくださる」と言います。「その日」は誰にも来る終末の日を意味します。その日には、主は、「忠実なよい僕」と受け入れ、評価し、是認し、肯定してくれると言うのです。
柏木哲夫先生は、「死を学ぶ」という著書の中で、「死に直面した人の心を苦しめることの一つは、『果たして自分の人生に意味があったか』という問いである。そして、人生に意味があったかと肯定的に答えることができるならば、その人は平安の内に生涯を締めくくることができる。逆に、否定的な答えしか見いだせないならば、虚無と絶望の中におかれる。人は原罪だから、自分自身では肯定的な答えを見出せない。絶対的な権威のある神からの肯定、義の栄冠を必要とする」と言われます。シメオンは、「わたしはこの目であなたの救いを見たから」と言います。「あなたの救い」は「あなたの是認、肯定、赦し」という意味です。罪人を赦し、是認し、肯定する主を知り、信じ、受け入れた。主は、その日に、義の栄冠を準備して待っていると言われます。
新しい年の初めですが、終わりのことを考えてみました。フィリピの信徒への手紙3章13節に「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」とあります。この「目標」はギリシャ語で「テロス」と言い、「終わり」という意味です。パウロは上へ召してくれる神の賞と栄光を目指してひたすら走るといいます。渡辺和子シスターの「置かれた場所で咲きなさい」という著書があります。「神が置いてくださったところで、咲きなさい。仕方がないと諦めではなく、咲くのです。咲くということは、自分が幸せに生き、他人を幸せにすることです」と述べています。新しい年も置かれた場所が神から与えられた場所と信じ、受け入れ、自分なりの花を咲かせていきましょう。自分の花を咲かせていくことができると信じ、祈っていきましょう。