与えられたテキストはマルコ福音書2章1-12節です。文脈的には五つの論争物語が記されていますが、その内の一つです。ファリサイ派と律法学者たちと論争を通して、イエスの信仰とファリサイ派、律法学者の信仰との根本的な違いが明らかにされています。イエスの病人に対する見方はファリサイ派や律法学者とは根本的に違っていました。ヨブが友人から「あなたが病気になっているのは、気づいていないけれども、どこかであなたが罪を犯しているからである。病気は罪の結果であるから、あなたは悔い改めなければならない」と言われ、ひどく傷ついたように、彼らは病気を犯した罪に対する罰であると考えていました。
ヨハネ福音書9章に生まれながら目の見えない人をめぐって論争する場面があります。「この人が目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか?本人ですか、それとも両親ですか」とイエスに尋ねます。イエスは「本人が罪を犯したからでも、両親が犯したからでもない。神の業がこの人の上に現れるためである」と答えています。イエスは病気や苦難は罪の結果である罰であるという考えを否定しています。
この時代のユダヤ人は苦難を負い衰退し、ローマの支配下にありました。ユダヤ人はその現実を受け入れることができませんでした。律法を厳格に守らないからであると信じていました。彼らは神の前に真剣に生き、懸命に律法を守っているのに、律法を守らない罪人や病人がいるから、神の祝福に与ることは出来ないと思い込んでいました。罪人や病人は国を滅ぼす存在と考えていました。病人は肉体的な苦しみに加えて精神的にも深く傷ついていました。ファリサイ派や律法学者たちは冷たい目で病人を見、罪人病人がいるから、ユダヤは繁栄しないと、罪人や病人の存在を否定していました。しかし、イエスは根本的に違っていました。
5節に「イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、『子よ、あなたの罪は許される』と言われた」とあります。イエスはファリサイ派や律法学者と違って、中風の人を親しみと愛をもって「子よ、あなたの罪は許される」と言っています。ここに神の国は既にきているというメッセージがあります。
ここに登場する中風の人は、自分の力では歩くことが出来ず、担架に乗せられ運ばれてきました。群衆のためにイエスに近づくことはできませんでした。そこで、彼らは屋根に上り、屋根をはがし、穴をあけ、中風の人が寝ている担架をイエスの前に、つり降ろしたというのです。常識では考えられない随分乱暴な行動です。非常識に見える行動の中に「信仰とはなにか」という事実が示されています。「イエスはその人たちの信仰を見て」の「信仰」は、ギリシャ語で「ピスティス」と言い、「信頼」という意味です。知識や理解ではなく、必ず何とかしてくれるというイエスに対する信頼です。言い換えれば、そういう思いをもってイエスに向かう姿勢です。それがピスティス・信仰です。
11節に「そして、中風の人に言われた。『わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい』」とあります。中風と言いますから、手足は麻痺し、起き上がることはできません。しかし、イエスは「起き上がれ」と言われます。彼はイエスの言葉を受け入れて従いました。信仰と信頼がなければ理解出来ないことですが、イエスの言葉を受け入れた彼は癒され立ち上がったと言うのです。
12節に「その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、『このようなことは、今まで見たことがない』と言って、神を賛美した」とあります。「床」は、ギリシャ語で「クラバトス」と言い、「彼の今までの生活」を意味します。「担いで」は、今までの生活、生き方ではない、別の生き方をすることを意味します。今までの生活をやめ、そこから起き上がり、新しい生活を始めることを意味します。「起き上がり」は「全く新しい人生を始める」ことを意味します。「起き上がりなさい。床を担いで、歩きなさい」。それはわたしたちに対するイエスの言葉です。その言葉を心から受け入れる時に、新しい生活、人生は始まるというのです。
中風の人は、イエスから「あなたの罪は赦された」という言葉をかけられ、その赦しの言葉を受け入れ信じる時から、新しい彼の人生は始まっています。彼の年代は分かりませんが、かなりの高齢者だと思います。死を目前にしていたかも知れません。人生が変わるなど考えても見なかったと思います。その彼の人生が変わりました。神を賛美する人生が与えられるのです。イエスから「あなたの罪は赦された」という「赦し」の言葉を聞く、その時から、人生の目的が明確になり、生かされている喜びが満ち溢れると言うのです。
ストリンドベリーというスエーデンの劇作家がいました。不幸な生まれと生い立ちのために屈折した人生を歩みました。三度結婚し、三度とも離婚しました。生活は荒廃し、酒と薬におぼれました。その中で自棄と退廃の劇を創作し、小説を書き残しています。63歳で亡くなりましたが、晩年は聖書を真剣に読み、信仰を回復しました。「復活祭」「キリストの生涯」などキリスト教的な作品を残して逝かれたそうです。彼は亡くなる時に、新約聖書を胸に抱き、「わたしの罪はゆるされた」と言ったそうです。「わたしの罪はゆるされた」が最後の言葉だったそうです。多くの人は、それは虫が良すぎる、神はそう甘くはない,厳しい方であると反論したくなると言われます。しかし、ストリンドベリーは「わたしの罪はゆるされた」という信仰をもって波乱万丈の人生を締めくくることができました。それは大きな救い、恵みであると思います。イエスは三度も裏切ったペトロを赦されました。「わたしは赦された」と人生の最後に感謝をもって受け入れる人生でありたいと思います。