2021年11月21日 マルコ福音書3章13-19節 「使徒の使命」

13節に「イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。そこで12人を任命し、使徒と名付けられた」とあります。「任命する」は、ギリシャ語では「造る、創造する」という言葉です。人間を創造すると言えば、創世記2章の「神の人間創造」を想い起こします。しかし、イエスの人間創造は、創世記とは違って、人間に使命と生きる意味とを与えることを意味します。「使命」は文字通り「命を使う」という意味です。つまり、イエスの創造は人に命を使う場を与えることを意味します。
礼拝をはじめ、教会の全ての集会は「何のために生きるのか」という問いかけであると言われます。わたしたちは礼拝ごと、「わたしは何のために存在し、何のために生きるのか」という問いを神に投げかけ、自分自身に問うていくことであるいわれます。言い換えれば、わたしたちがイエスと出会い、信じ受け入れ、同時に、生きる意味や使命を発見することであるというのです。
「イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た」とあります。「これと思う」は、口語訳では「御心にかなった人々」となっています。言い換えれば「イエスがお考えになった人々」という意味です。なぜ使徒になったのか。優れた能力や力があったから選ばれたからではありません。その理由は人間的には説明できないのです。ただイエスがお考えになったからであるというのです。ヨハネ福音書15章16節に「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選んだ。わたしがあなた方を立てた,任命した」とあります。選びはイエスの考えと意志が全てです。イエスの意志こそ12人の選びの全てであり、弟子たちの存在の基であります。わたしたちもイエスに選ばれたのです。イエスがこれと思って選んでくださり、イエスのご意志が一方的にわたしたちに臨んでくださったのです。
申命記7章6-8節に「主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたたちに対する主の愛のゆえである」とあります。わたしたちがこうして主を信じる者にされているのは神の愛と意志のゆえです。能力や才能で選ばれ,任命されたのではありません。イエスはその事実を認識するために,使徒たちをご自分のそばに置かれたのです。
14節に「また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。こうして十二人を任命された。」とあります。「使徒」はギリシャ語で「アポストロス」と言い、その動詞の「アポストロー」は「遣わす、派遣する」という意味です。十二人が選ばれたのは宣教に派遣されるためです。つまり、自分を遣わした人の言葉を伝えることを意味します。イエスの言葉を伝えるのであって、自分の考えや主義主張を伝えるのではありません。イエスから聞いた言葉を伝えるのです。それは教会も同じです。イエスの言葉を聞き、聞いた言葉を伝える。そのために遣わされているのが教会です。教会に求められていることは力や能力や知識ではなく、神がわたしたちを選び、遣わされているという信仰です。最も本質的なことは、自分が遣わされているという信仰です。
15節に「悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。」とあります。この時代も人間を苦しめるものがありました。力ある者が弱い立場の者を痛め、傷つけ苦しめていました。神のかたちに似せて造られたはずの人間が互いに傷つけ合うことが世に満ちていました。それらを悪霊の力と理解したのではないでしょうか。つまり、悪霊の力と戦い、悪霊を追い出していく使命が弟子たちに与えられているというのです。
16節以下にイエスが選び任命した十二人の名前が記されています。その十二人をみますと、職業、主義主張は異なり、一つにまとまることは難しいです。ローマ人の収税人マタイ、熱心党ゼロータイのシモン、無学な人と言われる漁師のペトロとヨハネ、「雷の子ら」と名を付けられたゼベダイの子ヤコブとヨハネ、イエスを裏切ったユダがいます。彼らの名前を見ると、考えや立場が一致していたから集まったのではないことは明らかです。また、彼らに特別な才能や能力があった訳ではありません。イエスの十字架の時、皆、イエスを裏切ってしまう人間的な弱さや躓きを持った者の集まりです。まとまりのないように見えた十二人が、一つになり得たのはイエスの選びと招きが原点にあったからです。大事なことは招きに応えていこうとする信仰を持っていることです。その点では教会も同じです。教会もいろいろな立場や考えをもった者の集まりです。与えられている賜物も様々で、皆異なっています。唯一共通しているのは、イエスに選ばれ、招かれている点です。そして、そのイエスの招きに応えようとしている信仰を持っていることです。そのイエスの招きに応え、それぞれに与えられた使命に生きていきたいと思います。