2021年11月7日 マルコ福音書2章38-28節 「律法は人のために」

テキストは,弟子たちが安息日に、麦畑を通っていたとき、麦の穂を摘み始めた。その様子を見ていたファリサイ派の人々が、「なぜ安息日にしてはならないことをするのか」と抗議したという。彼らは安息日に麦の穂を摘むことは、律法違反だというのです。彼らは安息日の労働することは重大な律法違反で赦されない行為と考えていました。
3章6節には、イエスが安息日に片手の萎えた人を癒したために、ファリサイ派の人々とヘロデ党の者が手を結んで、イエスを殺そうと相談したと記されています。安息日律法を厳格に守ることを求められ、違反すれば、厳しく罰せられました。
安息日律法違反が厳罰になったのは捕囚から帰還してからのことです。安息日律法が定められた当初は、神が六日間働き、七日目に休まれたように、神の働きに感謝し休息する日でした。しかし、時代の経過と共に安息日の本来の意図は後退していきました。最後は人間を裁く基準になっていきました。それにはバビロン捕囚と言う歴史的出来事が影響を与えています。紀元6世紀に、イスラエルがバビロンによって滅ぼされ、ゼデキヤ王は殺害され、多くの者はバビロンに連行されて行きました。これはイスラエルの寄って立つ土台が崩れ去る出来事を意味しました。彼らの生きる根拠を失ったのです。彼らは王制や神殿の代わりに、律法を土台に求め、律法を中心とした共同体が形成しました。中心になったのが「安息日」と「割礼」でした。安息日を厳守すること割礼を受けることがイスラエル人としてのアイデンティになりました。安息日も割礼も、目に見える現象です。そういう目に見える律法が大事にされ重んじられてきました。「安息日」と「割礼」という二つの律法が中心になり、それを行うことがイスラエル人の根拠でした。イエスの時代には安息日の律法は非常に細かな規定になっていました。律法学者は、普通では守れないような規定を作り、自分たちは守ることが出来ると言って、自分を誇るようなっていきました。そのような状況の中で、今日の出来事が起こっています。
弟子たちは安息日に麦の穂を摘みました。当時の律法では、空腹の時、他人の麦畑の穂を摘むことは許されていました。ですから、弟子たちがファリサイ派の人々から律法違反と抗議されたのは、他人の畑の麦の穂を摘んだからではなく、安息日に摘んだからです。イスラエルのアイデンティテイである律法を犯したと思われたからです。
イエスはファリサイ派の人々の攻撃にサムエル記21章のダビデの故事を引用し反論します。ダビデがサウル王の妬みから憎まれ、殺されそうになりました。ダビデは従者を連れてサウル王の追跡を逃れ、何日も食べることができませんでした。ある日祭司アヒメレクを訪ね、そこに献げられていたパンを食べて飢えを免れました。ダビデ自身も食べ、従者にも与えました。律法では神に献げた聖なるパンは祭司しか食べることができないと定められていました。ダビデは律法を破りました。イエスはそのダビデの故事を引用して、最も本質的な、大切なものは何かと問うています。何を優先させるべきか。律法を優先させるか、人の命と存在を優先させるべきではないかと問うているのです。
27節に「安息日は人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」とあります。安息日の律法が優先されるのではなく、人間がまず、第一に大切にされ、優先されなければならないと言うのです。
28節に「人の子は安息日の主である」とあります。この「人の子」は文脈から読めば、「メシア」の称号ではなく、人間一般を意味していると思います。つまり、わたしたちと同じ、人間一般のことです。つまり、イエスは安息日の主はわたしたち人間であるというのです。安息日の主とは律法から自由にされている人間を意味します。わたしたちはあらゆるものから自由にされている、人々の目から解放され、蔑みから解き放たれている。奢り高ぶりから解放され、あらゆる罪から解き放たれるというのです。
出エジプト記23章12節に「あなたは六日の間、あなたの仕事を行い、七日目には、仕事をやめなければならない。それはあなたの牛やろばが休み、女奴隷の子や寄留者が元気を回復するためである」とあります。ここには律法を守ったから立派だ,正しいとは言っていません。女奴隷の子や寄留者が元気を回復ためであると言います。六日の間、働いて、七日目には他人を休ませなさい、というのです。自分の体を休ませるのではなく、六日間自分のために働いてくれた者たちを休ませなさいというのです。つまり、安息日の本来の意味は、他者に休息と安らぎを与えることでした。女奴隷の子や寄留者、抑圧された者、差別されている者、弱い立場の者に休息を与える、彼らを大事にする、掛け替えのないものとすることに本来の意味がありました。
27節に「そして更に言われた。『安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある』」とあります。言い換えれば、律法は人のためにあるのであって、人が律法のためにあるのではない。だから、人の子、つまり,人間は安息日の主であるとなります。
イエスはひとりの存在は、全世界をもっても換えることができないと言っています。また、ひとりの人が滅びないで、永遠の命に与るために、神はひとり子・イエスを世に遣わした、と言い、ひとりの存在、ひとりの命の尊厳を明らかにしています。イエスはひとりの命を尊ぶ神の思いに生きられました。そうすることによって律法の本来の意味の回復にすべてをささげました。そのように働かれたイエスを信じて、イエスの思いを大切にしていきたいと思います。