イエスが生まれて四十日目、イエスは両親に抱かれてエルサレム宮殿に連れて行かれます。それは、神に捧げるためでした。旧約聖書の律法に、最初に生まれた男の子は主に捧げるということが定められていました。その定めに従ってイエスは、神に捧げられたのです。その時に歌った歌が詩編27編です。「主はたしの光、わたしの救い、わたしは誰を恐れよう。主はわたしの命の砦、わたしは誰の前におののくことがあろう」、10節に「父母はわたしを見捨てようとも、主は必ず、わたしを引き寄せてくださいます」とあります。たとえ世の中の誰れひとりの受け入れがなくても、受け入れ認めてくださると言うのです。それがわたしたちに与えられる神の救いです。キリストの光が輝いたという事実を、手にすることができるということす。
ルカ福音書2章29節から32節はシメオン賛歌と言われます。29節に「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。「たしはこの目であなたの救いを見たからです」とあります。この「この僕を安らかにさらせてくだします」はシメオンの死を意味し、「神よ、あなたは、今わたしに死を与えてくださいます。わたしは喜んでそれを受け入れます」という心安らかに死んでいくことができるという信仰告白に導きます。
この「安らかな」という言葉は、ギリシャ語で「エイレネー」と言いまして、「平安、平和、安心」という意味です。周りがどんなに激しい風が吹きまくっていても、その真ん中は、穏やかで静かである台風の目に喩えることができます。その平安の中に立ち、生きることが出来る。こんな恵まれた幸いな人生はないというのです。
日野原重明先生は、「人は、よく生きてきた場合だけ、よく死ぬことが出来る」と言っています。「しょっちゅう何時死んでもいいと言っている人が、よく死んでいけるかというと、必ずしもそではない。死にたい、死にたい、といつも言っている人は、今生きることへ満たされない思いが、そのように言わしめているのであって、本当に死に直面した時、心穏やかに死んでいくことはできない」と言います。「本当に喜んで生きてきた人だけが、本当に喜んで死んでいくことができる。よく生きた人だけが、本当に安らかに死んでいくことが出来る。」と言うのです。
宮沢賢治は、死ぬ10日前に教え子に手紙を書いて送っています。「風が吹く野原を歩き回るとか、月々働いたものの中から5円だして、家族を助けるとか、そのようなささやかなことも、出来る人にとってはなんでもないことのように思われるでしょうが、すでに出来なくなった人間にとっては、神の業のように思われます。そのようなことを人間の当然の権利だと思うならば、本当の人生が分かったとは言えません。どうか自分の人生を大切にしてください」と書いています。賢治は、「生きるということを、人間の当然の権利と考えては駄目だ。それは人間の傲慢だ」と言います。「神の業として、つまり、恩恵として上から与えられていると受け取るべきだ」と言うのです。しかし、私たちは「生きること」を賢治のように考えません。当然な権利と主張し、最大限に主張し、行使していく、わたしたちはそのように考えています。その方が魅力的な生き方です。しかし、宮沢賢治は、敢えて私たち近代人の通念を引っくり返すようなことを言っています。しかし、賢治の言うことの方が真実かも知れません。生きるということを、神様に生かされている、神の所与、恩恵と受け取る。その時本当の人生が始まると言えます。シメオンはずっと神に生かされている、そういう信仰に生きてきたのです。
聖書は、シメオンがこれまでどのように生きてきたかは詳しく述べていませんが、シメオンのこの言葉から想像すれば、シメオンはこれまで救い主を求めて、本当に誠実に、謙遜に神に従い、神と人のために生きてきた、だかから、今心安らかに去ることが出来ると言えるのです。
ウィクター・フランクルは、「わたしたちがいつか死を迎えるとき、自分の人生には意味があったと思わせることがあるとすれば、その一つは、愛と経験だと言います。無私に、損得を考えないで、神を愛し、人を愛した、そのことだけが残ると言います。もう一つは、苦しみを勇敢に引き受け、耐え抜いた経験だ、と言っています。「愛するという経験」と「苦難を勇敢に耐える経験」、それらが死を越えさせるというのです。
ルカ2章34節に「シメオンは彼らを祝福し、母マリアに言った。『御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしと定められています。あなた自身も剣で心を刺し貫かます。』」とあります。イエスも、マリアも、そしてシメオンも、数々の苦しみをいとわず雄雄しく負って生きていきます。フィリピの信徒への手紙1章29節に「あなたがたにはキリストを信じることだけではなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられている」とあります。また、ローマの信徒への手紙5章2節に「神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとしています。わたしたちは知っているので。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。」とあります。パウロはそのような生きた信仰をもって生きてきました。新しい年も勇敢に引き受けて、神の栄光を現して生きたいと思います。