2021年12月5日 マルコ福音書5章1-20節「掛け替えのない存在」

与えられたテキストはマルコ福音書5章1-20節です。悪霊に取りつかれたとか、レギオンという霊とか、二千匹の豚が溺れ死ぬなど異様な光景が描かれ、現実的はではありません。1節によれば、この出来事が起こった場所は「ゲラサ人の地」で、異邦人の地です。そこは豊かな土地で、畜産、養豚が主な産業でした。ユダヤ人は、豚は汚れていると言って、食べたり,飼ったりすることはありませんでした。しかし、ゲラサ人は異邦人ですから、その律法には全く関係がありませんので、豚を二千匹も飼っている大金持ちが住んでいました。ゲラサ人は見えない神を信じることができず、真の神を神としないで、己の腹を神としていました。目に見える財産と金を頼りにし、何よりも大事にしました。そのためには人がどのような非人間的な扱いを受けても意に介せず、ひたすら経済的な繁栄を求めていたのです。
3節に「この人は墓場を住まいとしており、もはやだれも、鎖を用いてさえ、繋ぎとめておくことはできなかった。これまでにも度々足枷や鎖で縛られたが、鎖を引きちぎり足枷を砕いてしまい、だれも彼を縛っておくことはできなかったのである。彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた」とあります。この人の置かれていた状況が、いかに非人間的で悲惨であるかを示しています。「足枷」とか、「鎖」とかは、ゲラサ人が、悪霊に取りつかれた男に取った対応を表現している言葉です。
「墓場を住まいとしていた」と言います。墓場は人々から恐れられ、住む者はいません。孤独と死と虚無が支配していることを意味します。マタイ福音書23章27節に「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている」とあります。イエスは墓に喩えてファリサイ人を批判しています。墓は死者の納められているところで、孤独と死と虚無があります。彼は死と虚無の場所につなぎ止められていたと言うのです。「石で自分を打ち叩いて」と言います。自傷行為、自分で自分を傷つけ痛めることしかできないのです。「昼も夜も叫んでいた」と言います。言葉を失ってしまいました。言葉にならない叫び声をあげている。誰も彼の叫びは理解出来ませんでした。彼は向こう側につなぎ止められていました。こちら側に来たいと、気が狂うほど求めているのに、こちら側に来たら迷惑だと足枷をはめられつなぎ止められていたのです。そのようなゲラサ人をイエスが訪ねるというのです。
4章35節にイエス自らが「向こう岸へ渡ろう」と提案し、自らが選択し、決断してくださったと記しています。イエスは親しく愛し敬う群衆を残して、敢えて異邦人のゲラサに渡ってこられたというのです。それも悪霊に憑かれ墓場を住まいとし、獣のような生活をしなければならなかった男の人を訪ねているのです。イエスは愛と赦しに満ちた方です。皆から捨てられ、墓場のような荒れ果てた場所でしか生活出来ない者を捜し出してくださるのです。
11-13節には少し理解し難い言葉が語られています。この人を苦しめていた悪霊のレギオンが,イエスによって二千匹の豚の中に送り込まれ、豚と共にゲネサレ湖になだれ込み、溺れ死んでしまったと言うのです。この物語は昔からいろいろと解釈されてきました。一人の人が救われるためには大きな犠牲を払わなければならない事実を示していると言います。二千匹の豚をお金に換算すれば莫大の金額になります。そのような巨額なお金や物よりも,一人の人間が、それも墓場を住み家としている人間が、人間性を回復して救われ、再び人間の社会、家族との交わりの中に帰されることが、何よりも大事であり、重要であるかを明らかにしているのがこの物語の本質だというのです。
14-17節は、この出来事に対するゲラサの人々の反応が記されています。彼らが、足枷をはめ鎖につないだ男が、イエスのよって人間性を回復したことを目撃しています。「レギオンに取りつかれた人が服を着て,正気になって座っているのを見ると、彼らはイエスにこの町から出て行ってほしい」と言いました。二千匹の豚を損失した。これ以上の損失は困る。だから、ここから出て行って欲しいと言うわけです。彼らは一人の救いよりも、お金や物の方が大事だと言うのです。彼らは見えないものよりも、見える物、経済や組織がより大事で本質的だというのです。そのために一人の人間存在は軽視され、否定されるのです。それに対してイエスは徹底的に一人の人間を大事にされます。一人の人間の救いのためには、命を投げ出してくださる。一人の人間性の回復のためには,御自分を十字架に献げてくださる。御自分の命を惜しまないと言うのです。
15節には、癒された男が、立ち去ろうとするイエスに、お供をしたいと願い出た。すると、イエスはそれをお許しなりません。家族のもとに帰るように命じられたとあります。ペトロやアンデレやヤコブらは家族を置いて従うように求められました。しかし、この癒された男には別の使命があると言われるのです。「自分の家に帰りなさい。そして、身内の人に知らせなさい」と命じられています。この男の果たすべき使命は、このゲラサ人の町で、身内の者に自分に起こったことを伝えることになると言うのです。自分を墓場につないだゲラサ人や家族のために福音を伝えなさいと言うのです。全く世俗的な、お金や物を頼りし、神を知らないゲラサで生きることが彼の使命でした。このゲラサで信仰によって生きよと言われるのです。彼はその使命に生きました。彼は異邦人に対する最初の伝道者になりました。主が自分にしてくださったことを率直に言い広めるために生きるのです。主イエスが中心です。主イエスがなさってくださることを伝えるのです。イエスのなされることは多様です。自分だけに与えられた使命を自覚して,主に仕えていきましょう。