2021年2月21日 マタイ福音書11章7-19節「心、動かされて」

 与えられたテキストはマタイ11章7-19節です。投獄されていたバプテスマのヨハネが「あなたは来るべき方だ。あなただけを待ちます」と激励の言葉を持たせて、弟子をイエスのところへ送りました。それに対して、イエスが「神の国は確実に来ている」という言葉を持たせて帰しました。その後、イエスが群衆に向かって語りかけた言葉が今日のテキストです。
7節に「ヨハネの弟子たちが帰ると、イエスは群衆にヨハネについて話し始められた。『あなたがたは何を見るために荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。しなやかな服を着た人なら王宮にいる。」とあります。「風にそよぐ葦」は、「ありきたり、普通の、世俗的な」と言う意味です。群衆はバプテスマのヨハネを世俗的な、一般的な預言者としてか見ることができないというのです。「しなやかな服を着た人」は、「権力と冨と名声を求める世俗人」を意味します。イエスが「およそ女から生まれた者のうち、ヨハネより偉大な者は現れなかった」と言ったように、群衆はヨハネを真の預言者、先駆者として見ることができない。群衆は事柄の現象だけにとらわれて、本質や真理を見分けることができないというのです。
4節に「イエスはお答えになった。『行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい』」とあります。「見聞き」は、原文では「聞き、そして、見た」となっています。「聞く」が、「見る」より先に置いています。つまり、聞くことを強調しています。また、原文の「見る」は「熟慮する、吟味する」という意味です。意訳すると、「行って、聞いて、熟慮したことをヨハネに伝えなさい」となります。信仰は聞くことと熟慮することに基づいているというのです。
クリスマス物語に、マリアがエリサベトを訪ねる場面があります。その時エリサベトは身籠もっています。彼女がマリアの挨拶を聞いたとき、胎内の子がおどったと言います。人間は胎内の時から「聞く」ことができ、聞く力は最期まであるといわれます。ローマの信徒への手紙10章17節に「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」とあります。「始まる」は「根源」という意味です。つまり、信仰は聞くことから始まり、聞くことが根源だというのです。
預言者エリヤが、アハブ王の迫害を恐れて、ホレブ山の洞穴に隠くれていたことがあります。その時、「エリヤよ、そこで何をしているのか。そこを出て、主の前に立ちなさい」という神の言葉がエリヤに臨みます。エリヤは神の言葉を聞きますと、内側から促されて、恐れを克服し、立ち上がり、再び神の言葉を語り始めました。列王記上19章11節に「主の御前には非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後、地震が起こった。しかし、地震の中に主はおられなかった。地震の後に火が起こった。しかし、その火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた。それを聞くと、エリヤは外套で顔を覆い、出て来て、洞穴の入り口に立った。そのとき、声はエリヤにこう告げた。『エリヤよ、ここで何をしているのか』」とあります。エリヤの信仰は、静かにささやく神の言葉を「聴く」ことに、信仰の根源があると言うのです。
漢字では、「聞く」と「聴く」があります。前者の「聞く」は「ただ何となく聞く」、後者の「聴く」は「関心をもって、主体的に、自分に関係づけて聴く」ことを意味します。預言者エリヤの信仰の根源は神の言葉を聴くことであるというのです。
14節に「『あなたがたが認めようとすれば分かることだが、実は、彼は現れるはずのエリヤである。耳のある者は聞きなさい』。ヨハネが来て食べも飲みもしないでいると、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。」とあります。この「耳のある者は聞きなさい」は、意訳すると、「自分自身に聞かせなさい」となります。つまり、主体性、自由と責任を持って聴きなさいというのです。
17節には、「笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、悲しんでくれなかった』」とあります。群衆は、イエスの言葉を聞くけれども、自分の実存に関わることとして聴くことがなかったというのです。マザ-・テレサが「愛の反対は憎しみではなく、無関心である」というように、イエスの言葉を自分の身に当てて聴くことができない。つまり、無関心、罪であるというのです。イエスの言葉を聴き、心を動かされ、感動し、イエスに寄り添うことを求めているのです。
文学評論家の佐藤泰正さんは、「他人の文学作品を批評するのは大変難しい。特に難しいのは、相手を褒めることである。相手を褒めるには、自分が座ったままではできない。立ち上がって、自分の気持ちを相手に持っていかなければならない。相手に寄り添って、相手の心になりきった時に、初めて相手の良さが分かり、褒めることができるようになる」と述べています。イエスの言葉を聴き、心を動かされ、寄り添うことを求めているというのです。
マタイ福音書9章46節に「イエスは群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」とあります。イエスの救いの動機は深く憐れまれる心であるいいます。「深く憐れむ」は、ギリシャ語で「スプランクナゼニサイ」と言い、名詞は「スプランクナ・はらわた、腸」という意味で、腸を痛め、心を激しく動かす感動と共感を意味します。善きサマリヤ人は強盗に襲われ、傷ついた旅人を「深く憐れまれ」、お腹を痛めて、心動かされ助けています。イエスはわたしたちの苦しみと悲しみにハラワタ・腸を痛め、心を激しく動かし、深く憐れんでくださいます。そのイエスの言葉に感動し、憐れみ深いイエスに心を合わせていきたいと思います。