与えられたテキストはマタイ福音書12章22-32節の「ベルゼブル論争」です。23節に「そのとき、悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人が、イエスのところに連れられて来て、イエスがいやされると、ものが言え、目が見えるようになった。群衆は皆驚いて、『この人はダビデの子ではないだろうか』と言った。しかし、ファリサイ派の人々はこれを聞き、『悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない』と言った」とあります。マタイ福音書は、イエスの癒しの業に驚愕し、イエスに従った群衆とイエスを殺害しようとするファリサイ派の人々を対比させ、「信仰」について明らかにしようとしています。本来は「ダビデの子ではないだろうか」は疑問文ではなく、「メシアに違いない」という肯定文で、確かな信仰を表しています。ギリシャの哲学者プラトンに「哲学(知)は驚きから始まる」という言葉がありますが、信仰は驚きから始まる。信仰の原点はキリストの御業に驚愕することであるというのです。「驚き」は、ギリシャ語の「エク・外」と「イテミー・立つ、」からなっていて、「古い自分から出て立つ、自分が変わる、変えられる」という意味です。つまり、「自分が変えられる」ことによって、イエスを信じる信仰が生まれるというのです。
ルカ福音書5章1節以下、ペトロの召命物語がありますが、その日、ペトロは漁に出ましたが、一匹も取れないで岸辺に帰り、網を繕っていました。そこに、イエスが近づき、「もう一度舟を出して、網を打ちなさい」と言われました。ペトロは「夜通し、網を打ちましたが、何も取れません。無駄です。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみます」と言って、舟を出し、網を打ちました。すると、網を引き上げられないほどの魚が獲れました。ペトロは驚愕し、「主よ、わたしから離れて下さい。わたしは罪深い者です」と叫び、イエスに従ったといいます。この「お言葉ですから」は、直訳すると「on your word・あなたの言葉の上に」となります。主イエスの言葉の上へ立ちますというのです。マタイ福音書的に言えば、自分の外に出て、主イエスの言葉の上に立つ、つまり、信仰はイエスの言葉を信頼し、自分を明け渡し、委ねていくことです。「罪」は「的をはずす」という意味がありますが、まことの的である神以外の向かった生きることを意味します。そういう生き方が変えられる、つまり、方向転換、悔い改めがペトロに起こったというのです。
28節に「しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」とあります。「来ている」は「あらかじめ来た、先行して来た」という意味です。しかし、ファリサイ派の人々は、神の国の到来と真実を信じることが出来ませんでした。なぜなら、イエスのなさることが、目が見えず口の利けない人のいやしという、謂わば、世の片隅の、誰にも気づかれない小さな出来事であったからです。ペルシャのキュロス王のように、バビロンを倒し、帝国を建設し、繁栄と栄光をもたらすならば、信じることが出来たでしょう。しかし、イエスの神の国は、一粒のからし種のような小さな出来事です。コリントの信徒への手紙Ⅱ4章13節に「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」とあります。一粒のからし種が、鳥が巣を作るように大きく成長する。その事実を信じることが信仰であるというのです。
「神の国はあなたたちのところに来ているのだ」の「神の国」は「領土、国」という意味ではありません。ギリシャ語で「バシレイア」言い、動詞は「バシレウオー・支配する、取り仕切る」で、「神の取りしきり、神の支配」を意味します。公平と平和と義の支配、十字架の主が復活する勝利、労苦が報われることを意味します。言い換えれば、神の希望、神の約束の成就です。希望・エルピス・人間の側から見える希望ではなく、神の方からくる希望です。
イザヤ書46章11節に、「わたしは語ったことを必ず実現する。形づくったことを必ず完成させる」とあります。イザヤは、全く光は見えず、将来の展望は開けない、闇のような捕囚の時代でした。しかし、神への信仰はイザヤに希望と勇気を与えました。その希望は絶望の向こうにある希望です。信仰はその事実を信じ、信頼し委ねることです。
アーサー・ミラーの「セールスマンの死」を見ました。主人公は有能なセールスマンで、若い時から才能を発揮し、輝かしい人生を歩みました。人がうらやむほどの豪華な生活を送っていました。しかし、時代は移り変わり、大量生産と多量消費に変わっていきました。彼は必要とされなくなります。やがて、定年を迎えます。不運は重なります。息子との確執を起こします。次第に窮地に追い込められていきます。彼は絶望し、乗り馴れた高級車で壁に激突し、自ら命を絶つというドラマです。彼の妻は、彼の葬式の後、「家の35年ローンもやっと支払いが終わったのに、あなたはもうこの世にはいない。何も残っていません。あるのは空虚、孤独だけだ」と、不条理な、残酷な人生を嘆きます。イエスは、虚無と不条理に打ち勝つ信仰を与えます。労苦が一つも無駄になることはないと信仰の恵みを証しています。コリントの信徒への手紙Ⅰ15章20節に「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。」、58節に「わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです」とあります。絶望と死から甦らされた主イエスの言葉を信じ受け入れていきたいものです。