与えられたテキストはマタイ福音書13章1-23 節の「種を蒔く人のたとえ」です。3節の「種を蒔く人が、種蒔きに出て行った」で始まっていますが、原文は「よく聞きなさい」という言葉で始まっています。そして、9節の「耳のある人は聞きなさい」で終わっています。つまり、「聞く」ということが強調されています。ローマの信徒への手紙の10章17節に「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」とあります。神の言葉を聞くことが信仰の原点であり、教会は神の言葉を聞く共同体であるというのです。「耳のある人は聞きなさい」の「耳」は「力」、つまり、「主体的に、自由と責任をもって」という意味です。言い換えれば、神の御旨を聞いて、選び、決断し委ねていくというのです。
10節に、「弟子たちはイエスに近寄って、『なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか』と言った。」とあります。弟子たちは、イエスがたとえを用いて語る目的と意味が分からなかったというのです。この「たとえ」はヘブル語では、「マーシャール」と言い、「覆う、隠す」という意味で、「真理を隠す、覆う」という意味です。「たとえ」は事柄を分かり易くするための方法のはずですが、ここでは、深い意味、真理を覆い隠してしまうと考えています。だから、譬えを聞く時には、聞く、耳、つまり、力を持って聞かなければならないというのです。
18節に「だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る」とあります。この「悟る」は「理解する」という意味です。預言者エレミヤは、「新田を耕せ」と言います。新田は雑草や茨の生えた土地を意味します。種を蒔く人は新田に鍬を深く入れ、掘り起こさなければ、実を結ぶことはできないというのです。つまり、人間の心、心構え、信仰、謙遜をもって受け入れなければならないというのです
「種を蒔く人のたとえ」には、三つの実を結ばない種と一つの実を結ぶ種が出てきます。種が実を結ぶか、結ばないかは土地の違いです。その「土地」は、ギリシャ語で「ゲエース」と言って、「人の心、姿勢、態度」を意味します。御言葉はどの人にも等しく伝えられるが、それを聞く人の心の違いで、実を結ぶか、結ばないかの違いがでてくる、というのです。
マタイ福音書12章50節に「だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」とあります。「行う」は「心を合わせる、繋がる、変える」という意味です。人間の心、心の姿勢がより本質的であるというのです。
18節「道端に蒔かれたものとは、こういう人である」とあります。「道端」は、人に踏み固められた土地のことです。言い換えれば、経験や知識を頼りにし、自分が砕かれることのない頑な心を意味します。イザヤ書57章15節に「神の求めるのは、悔い砕かれた魂です。神は打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり、へりくだる霊の人に命を得させ、打ち砕かれた心の人に命を得させる」とあります。イザヤは道端の心、打ち砕かれて悔い改め、謙遜になることを勧めています。イエスも心砕かれて、へりくだかれることを求めています。
23節に「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるいは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである」とあります。「良い土地」の「良い」は「神に喜ばれる」という意味です。イザヤの「悔い砕かれた魂」、エレミヤの「深く掘り起こされた心」のことです。
「御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるいは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである」の「悟る」は、「つながる、神とつながる、神と結合する、神と心を合わせる、赦される」という意味があります。コリントの信徒への手紙Ⅰ15章58節に「主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです」とあります。「結ばれる」は「赦される」という意味です。「離れる」が「罪」で、再結合が「赦し」です。原文には「確実に、確かに」という言葉(デエー)があります。「結ぶでしょう」の推量ではありません。「必ず実を結ぶ」という約束です。再結合・赦されるならば、百倍、六十倍、三十倍の実を結ぶというのです
ミレーに「種を蒔く人」があります。農夫が肩にかけた袋の中から、種を握り、手を振りながら撒いている力強い絵です。この絵はミレーの悔い改めの作品だと言われています。ミレーは子ども時から才能に恵まれていましたが、貧しいために美術学校に行けず、納屋の壁に絵を描いていたと言われます。19歳の時初めて学び、23歳の時、パリの美術学校に進みます。画家の道を選びますが、彼の絵は直ぐには売れませんでしたから、貧しい画家生活を送っていました。生活のために世俗的な裸婦画を書いていました。「羊飼いの少女」をレントゲン写真で見ると、その下地に裸婦が描かれています。その世俗的な絵の上に、描いているそうです。しかし、ミレーは悔い改めて、生まれ変わりました。それ以後、「晩鐘」、「落ち穂拾い」など、大地と共に生きる農民の姿や信仰的な絵を描きました。「歩き初め」という絵は、母親に支えられた幼子が、向こう側に立っている父親をめがけて、歩き始めた絵です。父なる神に向かって歩き始めたミレー自身を描いているのではないかと言われます。種が良い地に、悔い砕かれた魂、悟る心に落ちると、豊かな実を必ず結ぶ、必ず。その人なりの実を結ぶと約束します。希望を与えてくださいます。その希望の御言葉を信じていきたいと思います。