2021年4月25日  マタイ福音書13章24-30節  「主に委ねる信仰」

 与えられたテキストは「毒麦のたとえ」です。この記事はマタイ特有の記事で、マタイ的な特色がよく表れています。マタイは「神の国」ではなく、「天の国」を使います。「天」は地のものを超えたもの、「神」を意味し、「国」はギリシャ語で「バシレオー」と言い、「支配する」という意味で、「天の国」は「神の支配」という意味です。24節に「イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。『天の国は次のようにたとえられる。・・・』」とあります。「たとえ」は「比べられる、似ている」という意味です。意訳すると、「天の国は次の人に似ている、比べられる」となります。
主人は自分の畑に良い麦の種を蒔きました。しばらくして、芽が出て成長してみると毒麦が混じっていた。僕たちは「良い麦の種を蒔いたはずなのに、毒麦が出てきた」と驚き、主人に「今すぐに行って抜き集めておきましょうか」と言いました。すると、主人は「いや、毒麦を集めるとき、良い麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れるまで、両方とも育つままにしておきなさい」と答えたといいます。
30節に「刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、『まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい』」とあります。「倉」は「豊かな収穫」という意味です。「刈り入れの時」は「「審判の時、世の終末」を意味します。つまり、終末の時、豊かな収穫、勝利が与えられるというのです。主人は毒麦が現れて、麦が汚染されるという危機に直面させられるが、揺るがない収穫、終末の勝利を信頼して、待つことができる。そのような信頼と信仰の姿は、天の国に似ているし、比べられるというのです。
マタイ福音書の文脈みると、13:1以下に「種を蒔く人」の譬えがあります。23節に「良い土地に蒔かれた種は、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである」とあります。31節に「からし種のたとえ」があります。小さなからし種が、畑に蒔かれると、野の鳥が巣を造れるように大きく成長するというのです。二つ譬えは、種(福音、神の言葉)の中に、自ら成長する生命力を持っている事実を伝えています。この二つの譬えに挟まれている「毒麦のたとえ」があります。毒麦が生えても、麦の種の中にある自ら成長させる生命力(福音の力)を信じ、信頼し、成長を待つ。その生き方が、天の国に似ているというのです。
イザヤ書30章15節に「静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることこそ力がある」とあります。アハズ王が、シリア・エフライム連合軍が攻め込んでくる知らせを受けた時、動揺し、慌てふためき、アッシリアを頼って、使者を送り、援助を求めました時、イザヤが言った言葉です。イザヤ書7章9節には「信じなければ、あなたがたは確かにされない」とあります。「信じる」は「信頼する」という意味です。「確かにされる」は「固く支えられる、毅然と生かさる」という意味です。意訳すれば、信じれば、毅然として生きることができるとなります。
27節に「僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお播きになったのではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい』」とあります。この「抜き集める」は「裁く、分ける」という意味があります。つまり、今は毒麦と良い麦を分け、裁くなというのです。
マタイ福音書の中には、「人を裁くな。あなたがたも裁かれないために」「あなたがさばくその裁きで、裁かれる」「兄弟に腹を立てる者はだれでも裁かれる。裁くな」などの言葉があります。マタイの教会には、ファリサイ派的、律法主義的な信仰者がいました。自分たちは神から特別選ばれているという特権意識をもち、律法に忠実で、熱心で、純粋な信仰を持っていました。彼らは律法をもっていない者、立場や信仰の異なる者を、「毒麦」と言って裁き、排除しました。コリントの信徒への手紙Ⅰ4章5節に、「わたしたちを裁くのは主です。ですから、主が来られるまでは、先走って何も裁いていけません」とあります。「両方とも育つままにしておきなさい」と言います。彼らを苦しめた「裁き」を克服しようとしているのが、天の国の教えです。
イザヤ書11章5節に、「狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏し、子牛は若獅子と共に育ち。牛も熊も共に草をはみ、獅子も牛もひとしく干し草を食らう」とあります。子牛と獅子が共に育つ、牛も熊も共に草を食べる、獅子と牛が共存できるというのです。考えや立場や価値観の異なる者が互いに尊重する。裁くのではなく、許し、認め合う。天の国はそういうものであると言います。
マタイ福音書5章45節に「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである」、18章21節に「そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。『主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。』イエスは言われた。『あなたに言っておく。7回どころか七の七十倍までも赦しなさい』」とあります。毒麦を引き生き抜き集めるのではなく、終末の勝利を信じ、信頼して、主に委ねていく。詩編55編23節に「あなたの重荷を主にゆだねよ、主はあなたを支えてくださる。主は従う者を支え、とこしえに動揺しないように計らってくださる」とあります。重荷を、全てを主に委ねて歩んでいきたいと思います。