与えられたテキストは預言者イザヤの召命物語です。1節に「ウジヤ王が死んだ年のことである。わたしは、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た。」とあります。ウジヤ王が死に、アッシリアのティグラト・ピレセル三世が王に即位した年、BC745年のことです。ウジヤ王は52年間在位し、ユダ王国に経済的な繁栄をもたらしましたが、ウジヤ王の死後、ユダ王国は坂を転げ落ちるように衰退しました。一方アッシリアのティグラト・ピレセル3世は、古代オリエントの覇者になる野心も持って、南方に進出し、イスラエルとユダに侵略を始めました。アッシリアに対抗しシリヤとエフライムは軍事同盟を結び、更にユダ王国のアハズ王に同盟の加わる要求しました。アハズ王は拒否したために、同盟軍はエルサレムに迫りました。アハズ王は、動揺し慌てふためき、天敵のアッシリアのティグラト・ピレセルに援助を求めました。
そのとき、イザヤはアハズ王に進言しました。「落ち着いて、静かにしていなさい。恐れるな。力に頼らず、主なる神を信頼しなさい」と。しかし、アハズ王はイザヤの言葉に耳を貸さず、エルサレム神殿から膨大な財宝を持ち出しティグラト・ピレセルに貢ぎ、援助を求めました(列王記下16:7-9)。アッシリアのティグラト・ピレセルは、アハズ王の要請に応えて、シリア・エフライムを攻撃しました。シリア・エフライムはその対応に追われたために、ユダ王国は滅亡の危機を免れました。アハズ王は、イザヤの勧告を無視して、ダマスコのティグラト・ピレセルを訪問し、ダマスコにあったアッシリアの神々、バールとアシュラの神々をエルサレムに持ち込み、神殿に祭りました。イザヤはアハズ王に「アッシリアに援助を求めては駄目だ、神にのみに信頼し、委ねていかなければならない」と何度も勧告しましたが、アハズは聞き入れません。聞き入れないどころか、イザヤに激しい迫害を加えました。しかし、イザヤは信仰に立って、諦めないで、神への信仰と悔い改めを語り続けました。
BC745年、アハズ王の後、ヒゼキヤが王に即位しました。ヒゼキヤ王はアハズと違って、反アッシリア政策を取りました。アッシリアでは、センナケルブ王が即位し、帝国を建設するために、シリア・エフライムを攻め滅ぼし、エジプト軍を撃破し、ユダ王国に侵攻し、遂にエルサレムを包囲しました。そのとき、ヒゼキヤは、神殿や宮殿の倉庫にあった莫大な財産をアッシリアに貢ぎ物として贈るのでした。イザヤはヒゼキヤ王に武力に頼るのではなく、ただ神を信頼し、神に委ねることを勧告しました。コリントの信徒への手紙Ⅱ4章8節に「四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅びない」とあります。イザヤは反対されても、無視されても、絶望することなく、神への信頼を語り続けました。
イザヤ書30章15節に「立ち帰って、静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある。神信頼こそ、生きる道である」とあります。「信頼する・バタハー」は、「敵が頭の上を飛び越えても、大の字になって、神の御手に自らを委ねる」という意味です。イザヤはヒゼキヤ王に、神を信頼し、委ね、神の御旨を尋ね、応えていくことを勧告しました。コリントの信徒への手紙Ⅰ15章9節に、「わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さい者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。神の恵みによって今日のわたしがあるのです」とあります。今日あるは神の恵み、ひたすら神の恵みに応えるというのです。
8節に「そのとき、わたしは主の御声を聞いた。『誰を遣わすべきか。誰がわたしに代わって行くだろうか』。わたしは言った。『わたしがここにおります。わたしを遣わしてください』」とあります。イザヤの神の恵みに応え、神から遣わされているという信仰に立っています。ヨハネ福音書15章16節に「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、」とあります。あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び召した。わたしが全ての責任を持つと言われるのです。
イエスの弟子たちは「使徒」と呼ばれますが、「使徒」は「アポストロス」と言い、動詞の「アポステロー」は「遣わす、派遣する」という意味です。使徒とは派遣されている者のことです。自分の思いや願望ではなく、神の御旨を実現するため選ばれ遣わされていく者のことです。預言者も使徒のように、神に遣わされている存在です。神が責任を持って遣わし、守り、報いてくださるのです。
5節に「わたしは言った。『災いだ。わたしは滅ぼされる。わたした汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は、王なる万軍の主を仰ぎ見た』」とあります。新改訳聖書は「ああ、わたしはもう駄目だ」と訳しています。イザヤが神に出遭った時の告白です。パウロは「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」と告白しています。実存的な死、絶望です。詩編32編1節に「そのとががゆるされ、その罪がおおい消される者はさいわいである」とあります。神の恵みとゆるしの宣告です。イザヤも実存的な挫折と死と絶望を経験しています。神は滅び挫折したイザヤをゆるし生かし、「良し」と肯定してくださったのです。神は「何も恐れることはない、虚しくは終わらせない、労苦は報われ、あなたの孤独は癒され、あなたの全て責任をもつ」と言われます。イザヤの神の召命と信仰の原点です。その神の召命と信仰の原点を目指して歩んで行きたいと思います。