2021年6月20日 創世記21:9-21 ホセア書11:8-9「神の赦しと寛容」

 アブラハムはハランに住んでいたとき、「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。」という神の言葉を聞き、神の約束を信じて、故郷を捨て、出立しました。アブラハム75歳、サラ65歳の時です。しかし、その後、何年経っても、祝福のしるしの子どもが与えられません。遂に、アブラハムは、神の約束を疑い、諦め、妻サラの女奴隷のエジプト人ハガルに子ども産ませます。産まれた子はイシマエルです。イシマエルはすくすくと成長していきましたが、突然大きな試練が降りかかりました。神の約束が成就し、イサクが生まれたのです。アブラハムは100歳、サラ90歳の時です。サラは世継ぎのイサクが生まれると、イシュマエルを疎ましく思い、ハガルも邪魔になりました。サラとハガルの間に確執が生まれました。
9節に「サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムとの間に産んだ子が、イサクをからかっているのを見て、アブラハムに訴えた」とあります。イシュマエルが悪意をもって、イサクに何かをしたとは考えられません。サラの被害者意識から、言い掛かりをつけたのです。サラはハガルとイシュマエルの親子が家に居て欲しくないのです。10節に「あの女とあの子を追い出してください。その女の息子は、わたしの子イサクと同じ跡継ぎとなるべきではありません」とあります。サラの身勝手な訴えです。アブラハムはサラの訴えを聞き、激しく動揺し、葛藤しました。アブラハムは、朝早く起き、パンと水の皮袋を用意し、ハガルに与え、背中に負わせ、イシュマエルと共に追放したのです。ベエル・シェバの荒れ野に追放されたハガルとイシュマエルの革袋の水は瞬く間になくなりました。途方に暮れたハガルは、イシュマエルを一本の灌木の下に寝かせ、「わたしは子どもが死ぬのを見るのは忍びない」と言って、少し離れたところで、座り込んでしまいました。ハガルは耐えかねて泣きだし、それを耳にしたイシュマエルも泣き出しました。その時、神はイシマエルの泣き声を聞いたと言うのです。  
17節に「ハガルよ、どうしたのか。恐れることはない。神はあそこにいる子供の泣き声を聞かれた。立って行って、あの子を抱き上げ、お前の腕でしっかり抱き締めてやりなさい。わたしは、必ずこの子を大きな国民とする」とあります。神はイシュマエルをエジプト人の奴隷ハガルの子だからと言って、捨てるようなことはしません。神はエジプト人の奴隷ハガルとイシュマエルのために井戸を備え、「わたしは、必ずあの子を大きな国民とする」と約束します。ハガルとイシュマエルは、追放された者、愛されることのない者の象徴です。神は、追い出された者、捨てられた者、居場所のない者を顧み、憐れんでくださる方であるというのです。
ルカ福音書は、「彼らの泊まる余地がなかった」と、イエスの誕生を物語っています。イエスは居場所の無い、世から締め出された経験をされました。それだけに居場所のない者、世から締め出された者、打ちひしがれている者を深く憐れんでくださいます。マタイ福音書9章36節に「群衆が飼い主のない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれ、弟子たちを世に派遣した」とあります。「深く憐れむ」はギリシャ語で「スプランクニゼニサイ」と言い、「腸、はらわた」という意味で、他人の苦しむに腹を痛める共感、同情を意味します。イエスは飼い主のない羊のように弱り果てている者に深く心を痛め、共感し、寄り添ってくださる方であるというのです。
預言者ホセアは数奇な運命をたどりました。彼の妻ゴメルは二児の母でしたが、夫を捨てて、他の男と駆け落ちをします。一度は連れ戻し、男の所に行かないように囲いをするのに、それを破って、再び男の所に走り、荒れた生活に戻りました。その時、神はホセアに「行け、夫に愛されていながら姦淫をする女を愛せよ」と命じました。誰も受け入れることができない神の言葉ですが、ホセアは受け入れました。裏切り、捨て、他の男に走ったゴメルを迎え入れたというのです。
ホセア書11章8節に「ああ、エフライムよ、お前を見捨てることができようか。イスラエルよ、お前を引き渡すことができようか。アドマのようにお前を見捨て、ツェボイムのようにすることができようか。わたしは激しく心を動かされ、憐れみに胸を焼かれる。わたしは、もはや怒りに燃えことなく、イスラエルを再び滅ぼすことはしない。わたしは神であり、人間ではない。」とあります。「激しく心を動かされる」と訳されている言葉は、「翻って向きを変える」と意味です。怒りを赦しに変える。つまり、無限に赦すというのです。イスラエルの人々は、ヤーウェの神を捨て、バアルの神を愛する罪と過ちを犯しました。また、悔い改めを求められても、悔い改めることのない、頑な人々でした。しかし、神は頑ななイスラエルを見捨てず、罪と過ちを赦し、憐れみを注いでくださいました。
コリントの信徒への手紙Ⅰ15章9節に「わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さい者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。神の恵みによって今日のわたしがあるのです」とあります。「恵み」は「赦し」という意味です。パウロはかつて教会と使徒ステファノを迫害するという赦さることのない罪と過ちを犯しました。しかし、神はパウロの罪と過ちを赦しました。言い換えれば、パウロは神の赦しと寛容を信じる者に変えられました。神は悔い改めることのない、頑なな者を見捨てることなく赦し、受け入れてくださいます。パウロは今生きているのは、イエスの一方的な赦しと寛容であると言います。主イエスの赦しと寛容を信じていきたいと思います。