与えられたテキストはヨナ書3章1-5節のヨナ物語です。1節に「主の言葉が再びヨナに臨んだ。『さあ、大いなる都ニネベに行って、わたしがお前に語る言葉を告げよ。』。ヨナは主の命令どおり、直ちにニネベに行った」とあります。1章2節に「さあ、大いなる都ニネベに行ってこれに呼びかけよ。彼らの悪はわたしの前に届いている。」とあります。初めて神の言葉がヨナに臨みました。その時は、ヨナはアッシリアの首都のニネベを恐れ、神の言葉に従うことが出来ず、ニネベの逆方向のタルシシュ行きの船に乗り込み、逃走しました。臆病なヨナは神を裏切りました。しかし、神は再び裏切ったヨナに臨みます。神は裏切り、挫折したヨナを捨てません。神は敢えてヨナを選び、神の言葉を宣教するために大いなる都ニネベに遣わすのです。
ルカ福音書22章31節に「シモン、シモン、わたしはあなたのために、信仰がなくならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」とあります。「力づける」は「強める、強固にする、希望を与える」という意味です。イエスは自分を裏切り、捨てるペトロに「立ち直ったら、兄弟を強め、希望を与えなさい」言われるのです。裏切る者、弱さを持ったペトロを信じ期待し、「兄弟達を力づけよ」と言われるのです。3章1節に「主の言葉が再びヨナに臨んだ」とあります。神はニネベを恐れ、神の前から逃走したヨナを再び遣わすのです。
士師記6章15節に「どうすればイスラエルを救うことができましょう。わたしの一族はマナセの中でも最も貧弱なものです。それにわたしは家族の中でも一番小さい者」とあります。ギデオンはミディアン人を恐れて、酒船の中に隠れています。6章12節に「主の御使いは彼に現れて言った。『勇者よ、わたしはあなたと共におる』」とあります。神の見るギデオンとギデオンの自己理解には大きな違いがあります。神はヘブル語で「ヤッハウェ」と言い、創造する神を意味します。最も貧弱な者だ、小さい者だと自己卑下しているギデオンを勇者にする神です。モーセは、ヤッハウェの神に出会うと、イスラエルの民をエジプトの奴隷から解放する存在であることを示されます。すると、モーセは「ああ、駄目です。わたしは言葉が巧みではないのです。他の人を遣わしてください」と拒みます。自分は駄目な人間であるというのです。預言者エレミヤも、神に出会った時、「ああ、駄目です。わが主なる神よ、わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者に過ぎませんから」と拒絶します。しかし、神は「若者に過ぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ遣わそうとも、行ってわたしが命じることを全て語れ。恐れるな。わたしがあなたと共にいる」と命じます。モーセは「言葉の人ではないと言ってはならい。わたしはあなたと共にいる」という神の言葉に、エレミヤは「若者に過ぎないと言ってならない。わたしはあなたと共にいる」という神の言葉に聞き従いました。そして、モーセは神の言葉どおり解放者に、エレミヤは預言者に、また、ヨナも、恐れることなく、ニネベに悔い改めを迫る預言者に成長させられます。
3節に「ヨナは主の命令どおり、直ちにニネベに行った。ヨナはまず都に入り、一日分の距離を歩きながら叫び、そして言った。『あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる。』。すると、ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者も低い者も身に粗布をまとった。」あります。「すると」は「予想に反して、思いを超えて」という意味です。意訳すれば、頑ななニネベの人々は予想に反して、思いを超えて、神の前に悔い改めた。奇しき神の御業が起ったというのです。言い換えれば、神に遣わされるという信仰に立って働くとき、その働きは空しく終わらないで、豊かに報われる。神に遣わされていると信じて生きる者は、空しい思いで終わることはないというのです。
復活した主イエスは、夜通し働いても雑魚一匹も取れないで、空しい思いで、引き返して来た弟子たちの前に現れ、「もう一度舟を沖に漕ぎ出しなさい」と命じました。弟子たちは「無駄です」と反論しました。しかし、「お言葉ですから」と言って、舟を出し、網を降ろしました。すると、網が引きあげられないほどの魚が獲れたという不思議な事実が起こりました。つまり、生きることの手応えを経験させたのです。遣わされているという信仰に生きるとき、徒労で終わらない。神は報いてくださるという事実を伝えています。
パウロは教会の迫害者なので、教会から最も恐れられていました。回心したパウロがエルサレムの使徒に加わる時、エルサレム教会は「危険人物だ」と加入を拒否しました。しかし、バルナバは、主がパウロに現われたこと、パウロがダマスコで主イエスのことを大胆に述べ伝えていることを証言して、教会に加えることを説得しました。そして、バルナバの説得でパウロは使徒として受け入れられました。バルナバは無名で、この後の教会の歴史に記されていません。しかし、バルナバの存在がなければ、使徒パウロの存在も働きもありませんでした。バルナバがパウロを理解し、擁護したのは、自分は神から遣わされているという信仰があったからです。バルナバには、「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、立て、遣わす」というイエスの信仰がありました。神が敢えて選び立て遣わさすという信仰が本質です。その信仰に立ってこの大変難しい時代を生き抜きたいと思います。