2021年7月18日 列王記上3:4-15  コリントⅠ15:12-14 「終末的希望」

 静岡県の牧之原市にあるやまばと学園の創設者の長沢巌先生は、重い知的障碍を負った姉を疎ましく思い、姉さえ愛することの出来ない自分に絶望し、傷ついた心を引きずって、近くの教会を訪ねました。導かれて、イエスの十字架の愛をいただけなければ、生きていくことはできないと思い、洗礼を受けたと言われます。「神は、どんな人をも愛しておられる」というメッセージを、言葉だけではなく、愛の実践を通して証ししたいと思い、東京神学大学を卒業し、榛原教会に赴任し、重い障害を負った人々のために身を献げました。しかし、五十歳の時突然、脳腫瘍が見つかり、手術され、命だけは取り留めましたが、人工呼吸器を着け、応答も出来ない状態になられました。夫人の道子先生は、福祉施設運営には縁遠い方でしたが、無理矢理に引き出される思いで、やまばと学園の運営の責任を負われました。長沢先生は17年間病床生活を送られました。道子先生は長沢先生の存在することが、勇気と希望を与えられ、支えられて来ました。長沢先生の信仰と思いを継承するという使命と希望によって苦難と試練を乗り越えることが出来たと述べていました。人間は使命と希望が無くては生きることが出来ない事実を証していると思います。
列王記上3章7節に「わが神、主よ、あなたは父ダビデに代わる王として、この僕をお立てになりました。わたしは取るに足らない若者で、どのようにふるまうべきかを知りません。困惑しています。どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与え下さい。そうでなければ、この数多いあなたの民を裁くことが、誰にできましょう。」とあります。ソロモンが王に即位した時、献げた祈りです。ソロモンは冨や金品という物質的な物を求めないで、人の苦しみを正しく聞き分ける心と知恵を求めました。神は、ソロモンの祈りを聞き、大変喜ばれ、目に見えない信仰と知恵とを与えたと言うのです。
マタイ福音書6章32節に「あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」とあります。また、コリントの信徒への手紙Ⅱ4章18節に「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に続きます」とあります。神は目に見えるものではなく、見えない、永遠なるものを求める心を喜ばれ、与えてくださるというのです。
歴代誌下24章に「ユダの王ヨアシュ」ことが記されています。ヨアシュ王は七歳で王に即位し、40年間ユダを治めました。七歳の子どもですから、後見人として、祭司ヨヤダが選ばれました。ヨヤダは正しい信仰を有した人物で、神の目に適うことを行いました。ヨアシュ王は野心家で、名誉を受け功績を残すこと、自分の利益になることを求め、エルサレム神殿の修復や偶像礼拝の一掃を行うことはしませんでした。しかし、王に仕えるヨヤダは外側の、目に見えることではなく、目に見えない心の内側のこと、信仰、礼拝の内実を求め、信仰の深まりを進言しました。しかし、ヨアシュ王はヨヤダの言葉に耳を傾けることはありませんでした。ヨアシュ王は、ヨヤダの死後、神の御心に反することを行い、家臣たちに殺されるという悲惨な最期を遂げました。
フィリピの信徒への手紙3章13節に「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」とあります。パウロは目に見えない上へ召して与えられる神の賞を目指しました。目に見えない信仰の目標が、パウロの苦難に満ちた人生に打ち勝ち、生き抜く力になりました。
コリントの信徒への手紙Ⅰ15章節に、「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。」とあります。復活は実証できる出来事ではありません。信じる信仰の事柄です。イエスは信仰の事柄は「譬え」で語ることが出来ると言い、「芥子種」に喩えます。種は地に蒔かれると、朽ちていきます。しかし、朽ち果てますが、それで終わりではありません。芽が出て、木が生えて、花が咲き、実を成らせ、予想もできない命(いのち)を生み出します。復活も同じだと言うのです。
ヨハネ福音書12章24節に「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」とあります。種は朽ち果てますが、新しい命(いのち)が生まれるように、人の死後、新しい命が生まれると言うのです。死は新しい命が生まれるための死である。死を超え死に打ち勝つ希望を明らかにしています。
マルセルという哲学者は、二種類の希望があると言います。一つは日常的、具体的な目に見える希望です。もう一つは、目に見えない、根源的な、究極的な希望です。
パウロは「神が上へ召して、お与えになる賞」「世を去る時が近づきました。今や義の栄冠を受けるばかりです」と言っています。言い換えれば、神の与える終末的希望です。人が孤独と絶望的な状態に陥ってもなお消えることのない希望です。その終末的な希望を与えられるというのです。「神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」。神の輝く勝利を、神が上へ召してお与になる賞を目指して歩んで行きたいと思います。