エレミヤが活躍したのは、南ユダ王国が滅亡(BC587)へと向かう激動時代の40年間です。ヨシヤ王の治世13年(BC626年)に預言者として召命を受けました。ヨシヤ王がエジプト王ネコとの戦争で、戦死するという不幸な出来事が起こります。その後ヨヤキン王、ゼデキヤ王の時代になると、ユダ王国は衰退していきます。国内にはバアルの神の偶像礼拝が流行し、倫理道徳は腐敗し、国力は目に見えて衰えていました。国外ではネブカドレッアルの新バビロニア帝国が台頭し、南ユダを侵略しました。ゼデキヤ王はネブカドレッアルの多額の朝貢を断ると、ネブカドレッアルのバビロニアはユダ王国を侵略し、第一回の捕囚が起こりました(BC598年)。ゼデキヤ王はエレミヤの反対にも拘わらずエジプトに援軍を求めました。それを知ったネブカドレツァルはエルサレムを包囲し、神殿に火を着け、崩壊し、多くの民を捕囚としてバビロンに連行しました。第二回のバビロン捕囚が起こりました(BC587年)。エレミヤは激動の中で預言しました。
預言者は「言葉を預かる者」と書きますように、自分を語るのではなく、神の言葉を語るのが使命です。人々から喜ばれるのではなく、神に喜ばれることを第一にしていました。エレミヤは若くて預言者に召されたため、「若僧。生意気だ」と言われ、売国奴と身内から殺されそうになったこともありました。しかし、常に毅然とし、イスラエルの人々の不信仰に対して、厳しい裁きの言葉を語りました。
エレミヤ書20章1節に「主の神殿の最高責任者である祭司、イメルの子パシュフルは、エレミヤが預言してこれらの言葉を語るのを聞いた。パシュフルは預言者エレミヤを打たせ、主の家の上のベニヤミン門に拘留した」とあります。神殿の最高責任者であったパシュフルは、エレミヤを捕え、鞭打ちの刑を与え、エルサレムの神殿のベニヤミンの門に拘留しました。エレミヤは預言者に召されたためにずいぶん辛い目に会い、迫害を受けました。
エレミヤはアナトトという地方聖所の祭司の息子として生まれ育ちました。地方の出身ですから、素朴で、感性豊かで、強い正義感を持ち、優しく細やかで、人一倍傷つきやすい人柄でした。エレミヤは何度も預言者を止めようと思ったと告白しています。8節に「わたしが語ろうとすれば、それは嘆きとなり、『不法だ、暴力だ』と叫ばずにはいられません。主の言葉のゆえに、わたしは一日中、恥とそしりを受けねばなりません。主の名を口にすまい。もうその名によって語るまい、と思っても、主の言葉は、わたしの心の中、骨の中に閉じ込められて、火のように燃え上がります」とあります。エレミヤは、「神の言葉を語るのはもう懲り懲りだ。わたしは断ったのに、神は無理矢理にわたしを預言者にした。神にだまされた。語れば、『嘘つきだ、裏切り者』と憎まれ、馬鹿にされる。預言者なんかに誰がなるか、もう止めた」と言います。しかし、矛盾しているのですが、止められない自分があり、止めればエレミヤではなくなるというのです。「主の言葉は、わたしの心の中、骨の中に閉じ込められても、火のように燃え上がります。押さえつけておこうとして、わたしの方が疲れました。わたしの負けです」と告白しています。ガラテヤの信徒への手紙2章19節に「わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」とあります。神の言葉は、パウロやエレミヤを内側から生まれ変わらせ、促し、力づけ、苦難、試練に立ち向かわせるというのです。
使徒言行録20章22節に「そして今、わたしは、霊に促されてエルサレムに行きます。そこでどんなことがこの身に起こるか、何も分かりません。ただ、投獄と苦難とがわたしを待ち受けているということだけは、聖霊がどこの町でもはっきり告げてくださっています。しかし、自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません」とあります。パウロがエフェソの教会の長老達を呼び寄せ、最後の言葉を述べたところです。これから、霊に促されてエルサレムに上ろうと思うが、エレサレムで、何が起こるか分からない。確かなことは、投獄される苦難が待ち受けていることです。しかし、わたしは、恐れず、エルサレムに上ります。自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、任務(神の恵みの福音を力強く証しする)を果たすことが出来さえすれば、この命を惜しいとは思いわないというのです。パウロは主イエスの信仰によって、確かに待ち受けている苦難を回避するのではなく、苦難に向き合い、引き受けるというのです。
「任務を果たすことさえできれば、この命すら決して惜しいとは思わない」とあります。この「任務」と訳されている言葉は、ギリシャ語では「デアコニア」と言い、「奉仕、努め、課題」という意味です。内容的には、神の恵みの福音を力強く証しすることです。パウロは神の言葉を語る課題と任務に忠実に生きるために苦難を負うというのです。
ローマの信徒への手紙8章37節に、「しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしたちは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」とあります。パウロは、どのような苦難に出遭っても、神は最後の勝利をお与えになると信じ、苦難に立ち向かいましたといいます。主イエスの輝く勝利を信じて前を向いて歩んでいきたいものです。