2021年8月1日 創世記49:29-33 ルカ13:10-17 「神の力」

 与えられたテキストは創世記のヤコブの生涯の最期の物語です。ヤコブは波乱の生涯を歩み、その終わりが来て、自分の子どもたちを集めて、ひとり一人を祝福して、静かに死を迎えたというのです。33節に「ヤコブは、息子たちに命じ終えると、寝床の上に足をそろえ、息を引き取り、先祖の列に加えられた」とあります。「先祖の列に加えられた」の「加える」はヘブル語で「アサフ」と言い、旧約聖書では、25章8節に「アブラハムの生涯は175年であった。アブラハムは長寿を全うして息を引き取り、満ち足りて死に、先祖の列に加えられた。」と、35章29節に「イサクは息を引き取り、高齢のうちに満ち足りて死に、先祖の列に加えられた。」と三回しか用いられていません。「満ち足りて死に」の後に置かれ、「神の祝福を受けた」とことを意味します。
アブラハムやイサクが祝福の列に加えられるのは分かりますが、ヤコブが加えられたのには違和感があります。ローマの信徒への手紙4章17節に「彼はこの神、すなわち、死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じたのである。彼は望み得ないのに、なお望みつつ信じたのである」とあります。アブラハムの純粋な信仰が讃えられています。アブラハムが神の祝福の列に加えられるのは当然です。しかし、ヤコブは違います。ヤコブは、アブラハムやイサクと違って非常に罪深い人間です。彼はイサクとリベカの間に、エソウと双子で産まれ、兄エソウの足のかかとを掴んで、つまり、エソウと喧嘩をしながら、生まれて来たというのです。野心家で、狡猾な青年として育ちました。ヤコブは弟として生まれてきたことを恨み、兄エソウを憎んでいました。その時代の習慣ですが、長男がすべての財産と権利を相続できました。ヤコブはエソウの相続権を、策略を奪い取りました。父イサクが年老い、目が不自由になっているところに、兄エソウに変装し、声を似せ、近づきました。年老いたイサクはヤコブの策略に気付かず、ヤコブに祝福を与えてしまいました。ヤコブは狡猾にも、長男エソウを出し抜く悪行を犯しました。裏切られたエソウは激しく怒り、ヤコブを殺そうとしました。ヤコブは父の家にいることが出来ず、伯父のラバンを頼ってハランに逃れていきました。そこで、ラバンの娘ラケルとレアと結婚しました。レアとの間に6人の子、レアの召使いジルバの2人の子、ラケルの間にヨセフとベニヤミン、ラケルの召使いの間に二人の子、全部で十二人の子どもが与えられました。ヤコブは、十二人の子どもの中でヨセフを溺愛し、兄弟間の紛争の種を作りました。父親としても失格です。父と兄を裏切り、伯父に確執を持ち、人間的な弱さと破れを持っていました。罪と失敗のヤコブでした。
その罪と穢れのヤコブが、「神の祝福の列に加えられた」と言うのです。神の恵みは人間の如何にかかわらず、罪や穢れを遥かに上回ります。使徒言行録24章15節に、「正しい者にも正しくない者もやがて復活するという希望を、神に対して抱いていています」とあります。パウロがフェリクス総督の前で証言した言葉です。パウロの言葉を聞いたユダヤ人は激怒し、義しくない者が救われるはずがないと言うのです。しかし、救いにとって、人間の能力や功績は問題にならない。一方的な神の恵みによって、救いが与えられるというのです。
ルカ福音書13章10-17節に、主イエスが、18年間も病気の霊につかれ、腰が曲がったままで、伸ばすことのできない病気で苦しんでいた女の人を癒しました。それを見た会堂司は怒り、病気の女の人が癒されることはないというのです。悪霊に取り憑かれ、体が二つに折れたように曲がっている女の人に、何の価値も認められない、無価値な存在だというのです。
しかし、イエスはそういう見方をしません。歪んだ価値観と戦われました。16節に「この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか。」とあります。彼女が持っている能力、才能、功績に関係なく、彼女の存在そのものに目を注ぎ、存在それ自体を受け入れ、肯定しています。
12節に「イエスはその女を見て呼び寄せ、『婦人よ、病気は治った』」と言って、その上に手を置かれた。女はたちどころに腰がまっすぐになり、神を賛美した。」とあります。この「見る」は単なる見るではなく、「より以上を見る、上を見る、真実を見る、愛を持って見る」という意味です。イエスは二つ折れになった姿を見るのではなく、存在そのものを見ているのです。そして、イエスの愛の眼差しが、彼女を生まれ変わらせ、神を賛美する者に変えられたというのです。
哲学者の森有正の父親は森明、祖父は森有礼です。森有礼は、伊勢神宮に不敬を冒したと右翼に暗殺されます。明は14歳で、学習院の中等科二年生でした。退学し自宅に引き籠もりました。彼は初等科に入学したが、持病の喘息で通学していません。今の言葉で言えば不登校生でした。明は落ち込む、劣等感に苦しんでいました。その時、文部大臣だった森有礼が心を込めてお世話をしたフランク・ミュラーという英国人の英語教師が青山学院で教えていました。自宅に引き籠もっている明を家族の一員として自宅に迎え入れました。明はミュラーの感化を受けて、洗礼を受けられました。ミュラーは、その人の才能や能力に関係なく、その人の存在の在りのままを受け入れました。人が後で得たものは何ら関係なく、そういう世的なものから自由になっていました。そのミュラーの信仰が不登校で、絶望している森明を救いました。コリントの信徒への手紙Ⅰ1章18節に「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」とあります。神の言葉は人を生き変えらせる力です。その真実を受け容れ従っていきたいと思います。

稚拙な説教を読んで下さり感謝します。キリストの福音が届きますことをお祈りしています。