2021年8月8日 創世記4:1-10  コリントⅡ12:8-10 「イエスの贖い」

 カインとアベルの物語です。カインとアベルの兄弟が、神に捧げ物を献げると、神は弟アベルの捧げ物には目を留めましたが、兄カインの捧げ物には目を留めませんでした。カインは怒りで心を燃やし、アベルを野原に連れ出し殺害してしまったという物語です。スタインベックの「エデンの東」や有島武郎の「カインの末裔」など文学や哲学に大きな影響を与えました。
「アベル」はヘブル語「へベル」と言い、「息、蒸気、はかない、空虚、無価値、無意味」という意味です。カインはヘブル語で「カーナー」と言い、「力強い生命力、豊かな能力」を意味します。神が目を留めたのは、力強い生命力と能力をもったカインではなく、息や蒸気のようにはかない、無価値なアベルです。申命記7章7節に「主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちが他のどの民より貧弱であった。」とあります。神は少数で弱小で、貧しい者に目を注がれる方です。カインとアベルの物語は、はかなく無価値な者に特別な恵みを与えるという信仰を表しています。
マタイ福音書20章に「ぶどう園の労働者のたとえ」があります。主人は仕事がなく立ち尽くしている人々の集まる集会所に出掛けて行って、夜明けに、一日一デナリオンで雇いました。更に、九時ごろに、十二時ごろに、三時ごろ、五時ごろ出掛け雇いました。日が暮れたので、約束の一デナリオンを払うとすると、朝早くから、また、九時ごろから働いた人々が、三時ごろと五時ごろから働いた人々を見て、あの連中は一時間しか働きません。それなのに、まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと同じ扱いにするのは、納得できませんと文句を言いました。すると、主人は「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたは、わたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。あなたがわたしに文句をいうことはできない。わたしは、この最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分がしたいようにしてはいけないのか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか」と言いました。主なる神は貧しい者や弱い者に特別目を注ぎ、愛を注がれるというのです。
カインとアベル物語にヤッハウェストが書いたものです。イスラエルは政治的、経済的に冨、栄え、大国になり、高慢になり、隣国の弱小国を侵略し、略奪した時代です。そういう状況の中で、弱小なもの、貧しい者を愛する信仰を思い起こさせようとしているのです。申命記14章28節に「その年の収穫物の十分の一を取り分け、町の中に蓄えておき、あなたのうちに嗣業の割り当てのないレビ人や、町の中にいる寄留者、孤児、寡婦がそれを食べて満ち足りることができるようにしなさい」とあります。神の目は寄留者や孤児や寡婦に特別に注がれています。マルコ福音書2章17節に「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」とあります。この「罪人」は律法を持たない異邦人や病人や弱い者、小さい者のことです。イエスは彼らの贖いと救いのために来たと告白しています。
6節に「主はカインに言われた。『どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。』」とあります。「顔を上げる」は、「まっすぐに立つ」という意味で、「伏せる」に対照させて、本来の人間の在り方を示しています。「罪」は「野獣」という意味で、「求めている」は、野獣が口を開けて獲物を狙っている様を表します。「罪」はヘブル語「ハーター」と言い、「的、目標、道をはずす」という意味です。言い換えれば、神の愛を疑うことです。パウロは、愛は情け深く気長で、寛容であるといいます。逆に、罪は単純で、直ぐに白黒をつけます。カインは単純で、気短でしたので神の深い意図を読み取ることができなかったというのです。カインと対照的な人物はヨブです。ヨブは突然の災害で十人の子どもと全財産を奪われるといいう不条理な出来事に出合います。神の不条理はそれだけではなく、重い病気を患います。ヨブの妻は「あなたはどこまでも無垢でいるのですか。神を呪って、死ぬ方がましでしょう」と言いました。すると、ヨブは「お前まで愚かのことを言うのか。わたしたちは、神から幸福をいただいているのだから、不幸もいただこうではないか」と諭しています。ヨブは神を疑わないで、信じて希望を持って生きました。神はカインにも希望を失わないで、生きることを求めているのです。
6節に「もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずである」と言います。この「正しい」は「喜んで、楽しく、愉快に」という意味です。言い換えれば「精一杯生きる」です。「顔を上げる」は「まっすぐに立つ、希望を持って生きる」という意味です。イザヤ書7章9節に「信じなければ、あなたがたは確かにされない」とあります。コリントの信徒への手紙Ⅱ12章9節に「すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われた」とあります。パウロは、生まれながらの病気を持っていました。それを癒してくださいと何度も祈りましたが、祈りは叶えられませんでした。しかし、神の力は弱いところに完全に発揮されるという御言葉が与えられました。パウロはその御言葉を信じ、受け容れました。イエスがわたしの救いのために、命を献げてくださった、イエスの贖いを信じて、希望をもって歩んでいきたいと思います。

稚拙な説教を読んで下さり、感謝します。キリストの福音が届きますことをお祈りします。