2022年1月30日 「死を超える生」イザヤ書6章1-11節

 黒澤明に「生きる」という作品があります。主人公は市役所に勤める中年の公務員です。彼は毎日、判を押したように同じ仕事を、ただ惰性的に繰り返していました。朝8時に出勤し、午後5時になると、さっさと書類をしまって家に帰ってくる。まったく平凡な生活の繰り返しでした。しかし、そのような平凡な生活が突然中断されました。胃がんに冒されたからです。もう手遅れで、回復の望みがないと診断されました。そこで、彼は初めて人生とは何か、生きるとはどういうことかを、真剣に考え始めるのでした。
丁度その時、小さな保育園に努めている女性と知り合いになり、目を輝かして子どもたちを保育している姿に感銘を受けました。そこから、彼は自分に残された人生をそこつぎ込む決心をするのでした。女性の勤めている保育園の園庭を拡張して、そこにブランコを造ること、それを本当に生き甲斐のある仕事をしようと心に決めました。胃癌は次第に広がり、体力は衰えていきます。しかし、彼の執念は挫けず、限りある命を燃やし続け、遂に公園とブランコは出来上がりました。彼は雪の降る寒い夜、完成したブランコに乗って揺られながら、死んでいきました。黒澤監督はこの作品でなにを伝えたかったのか、いろいろと考えさせられます。一つは「人は死と向き合うこと」によって、初めて真実の自分を発見することが出来るということです。イザヤも死と向き合うことによって、初めて預言者として自分自身の道を歩むことになりました。宗教改革者ルターもそうでした。ルターは1505年7月のある日、或る村の道を歩いていた時、突然激しい夕立と落雷に合い、ルターの立っている近くに落ち、ルターは地面に叩きつけられました。ルターは「死ぬ」と思いました。その時、「聖アンナさま、お助けください。わたしは修道士になります」と誓いを立てました。この経験が、ルターを変え、その後の宗教改革が行われるきっかけとなったと言われます。
預言者イザヤも、神の前で死を経験し、変えられた人間です。ウジヤ王は、ユダに繁栄をもたらした王ですが、その成功ゆえに傲慢の罪を犯しました
彼の晩年はらい病に冒され死にました。ウジヤ王の死は、青年イザヤの心を激しく揺れ動かしました。ルターは恐れの心を持ちながら、神殿に入り、神の前に立ちました。その時、彼は幻のうちに神との出会いを経験しました。
5節に「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は王なる万軍の主を仰ぎ見た」とあります。「災いだ」は、ヘブル語で「オーイ」と言い、「死を恐れ、愛する者の死を嘆き悲しむ」ことを意味します。新改訳聖書では「ああ、わたしは、もうだめだ」と訳されています。死ぬかもしれないという経験は、本当に辛いことです。しかし、神はその経験によって私たちを全く新しい道へと導かれます。イザヤの死の経験は、深い罪を自覚させるものでした。パウロが「死の棘は罪である」(Ⅰコリント15:56)と言っていますが、イザヤがここで経験したことも同じでした。自分の力では立ち上がることができない程、打ちのめされる深い罪認識、それに伴う絶望、死の経験でした。しかし、同時にイザヤに与えられたのは、その罪の赦しでありました。
イザヤが絶望に打ちのめされていた時、セラフィム(天の使い)の一人が飛んで来て炭火をイザヤの口に触れさせて言います。それは一つの象徴的な話です。7節に「彼はわたしの口に火を触れさせて言った。『見よ、これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り去られ、罪はゆるされた』」とあります。イザヤにとって全く思いがけない経験でした。自分は一度、神の前で死んだ人間であり、滅びた人間であります。しかし、神はこの汚れた人間の罪を赦し、生かして下さったのです。ここに預言者イザヤの実存的な原体験があります。神は人間の最も弱いところ、最も汚れたところに触れてくださるのです。
主イエスも重い皮膚病で汚れているところを、自らの手で触れ、清めてくださいました。イザヤは事あるごとに、その原点に立ち帰って、生涯を生き抜いた人間であると思います。
 8節に「その時、わたしは主の御声を聞いた。『誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。』。わたしは言った。『わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。』」とあります。
イザヤは神の「誰を遣わすべきか」という声を聞いた時、「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」と答えました。イザヤがそのように答えることが出来たのは、預言者として活きる自信があったからではありません。神の前に砕かれ、打ちのめされ、しかもなお生かされている事への感謝の応答です。ルターは、「死んでいたイザヤが神の一方的な赦しによって復活した」と言います。まさにそうです。神がわたしたちの最も弱いところに触れてくださる時に、わたしたちは生き返ることができるのです。
イザヤの真の命は、一本の真っ直ぐな線のように伸びているのではありません。一度折れて、そこから、新しい命が芽生えて伸びています。だから、「はい、わたしがここにいます。わたしを遣わしください」と、神に応答することができたのです。それが福音です。
コリントの信徒への手紙Ⅱ1章8節に「わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。神は、これほど大きな危険からわたしたちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるにちがいないと、わたしたちは神に希望をかけています」とあります。神はわたしたちが打ち砕かれたときに、新しい命と力を与えてくださいます。イエスの言葉は死から、わたしたちを救い出し、希望を与えてくださいます。神の言葉を信じて受け入れていきましょう。