与えられたテキストはルカ福音書19章28-44節です。28節に「イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムに上って行かれた」とあります。「このように話してから」は、その前の「ムナのたとえ話」を意味します。或る王が、十人の僕にそれぞれ一ムナのお金を渡し、「わたしが帰ってくるまでに、これで商売をしなさい」と命じて旅に出ました。そして、旅から帰って来て、それぞれ、どれだけ利益を上げたか決算したと言うのです。
最初の僕は、「ご主人様、あなたの一ムナで、十ムナをもうけました」と言って差し出しました。王は「良い僕だ。よくやった。お前はごく小さい事に忠実だったから、十の町の支配権を授けよう」と僕を讃えました。二番目の僕は「五ムナを稼ぎました」と差し出しました。三番目の僕は、「あなたは大変厳しい主人ですから、一ムナを失わないように布に包んでしまって置きました」と一ムナのまま差し出しました。王はその僕を厳しく叱責し、「一ムナをこの男から取り上げて、十ムナ持っている者に与えよ」と命じたというのです。王は委ねられた賜物を十分に用い尽くさない者に対して非常に厳しいです。失うことを恐れて、賜物を十分に用い尽くさなかった僕に対して厳しく裁かれたというのです。
宗教改革者ルターは「大胆に罪を犯せ」と言いました。勿論悪いことをせよ、というのではありません。罪の赦しを深く経験し、全ての罪責から自由にされよというのです。言い換えれば「大胆に善を為せ」となります。わたしたちは過ちの多い人間ですが、キリストに出会い、赦されたのですから、ビクビクすることなく、大胆に生きるよ、と言うのです。この「ムナのたとえ話」も、王から預けられた一ムナが、余りにも少なすぎる、これでは何もできない、と言うのではなく、十分に用いて、恐れず大胆に生きよと教えているというのです。
29節に「そして、『オリーブ畑』と呼ばれている山のふもとにあるベトファゲとベタニアに近づいたとき、二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。『向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、引いてきなさい。もし誰かが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入用なのです』と言いなさい。」とあります。弟子の二人が出掛けて行くと、そのとおりでした。二人は子ろばをイエスのところに引いてきたというのです。
「主がお入用です」の「主」は、主イエスではなく、「ろばの子の持ち主」を意味します。原文どおり訳しますと「このろばの子の主人が必要としているのです」となります。全く知らない人が突然来て、「主人が連れて来なさい」と言うから連れて行くと言うのです。この人は驚いたに違いありません。ろばの持ち主は、お前たちは何を勝手なことを言うのかと腹を立てに違いありません。
或る人は、この物語とムナのたとえ話を重ねて読んで、この二つは「冒険物語」と言います。弟子たちは突然向こうの村に行き、繋いであるろばを連れてきなさいと命じられたのです。弟子たちは不安と恐れをもって出掛けたと思います。「ろばがつないである」、と言うが、そんなことがあるだろうか。「ろばを解いてきなさい」と言うが、そんなことができるだろうか。持ち主から何をするのかと咎められれば、主が必要です。そう言えば引渡してくれるというのです。そんなことが果たしてあるだろうか?弟子たちは不安に襲われたと思います。しかし、弟子たちは不安と恐れに打ち勝ち、ただ、イエスの言葉だけを頼りにして出て行きました。その意味では、弟子たちにとっては一つの冒険であります。
ルカ福音書9章2節に「神の国を宣べ伝え、病人をいやすために遣わすにあたり、つぎのように言われた。『旅には何も持って行ってはならない。杖も袋もパンもお金も持ってはならない。下着も二枚は持ってはならない。』」とあります。弟子たちはイエスの言葉だけを頼りにし、主の言葉がいかに頼りがいのあるものであるかを学びなさいというのです。
森有正は、「信仰に生きることは冒険だ」と言います。神はアブラハムに、住み慣れた地と父の家を離れ、わたしの示す地に行きなさいと命じました。ヘブライ人の手紙は「アブラハムは行き先を知らないで出て行った」言います。神の言葉だけを信じ、出て行きましたというのです。行き先を知り尽くし、自分の力を信じることができたから出立したのでではありません。主の言葉だけを信じて、信仰によって出立したというのです。
38節に「主の名によってこられる方、王に、祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光。」とあります。クリスマス物語の「高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」という言葉を思い起こします。しかし、ここでは「地には」でなく、「天には平和」と歌っています。天に平和があると言うのです。この世ではサタンが勝っているように見え、暗黒の力が支配しているのではないかと疑い、何か空しい絶望感に襲われます。しかし、イエスは、決してそのようなことは言いません。今は見えないかもしれないが、天において平和、神の勝利が始まっているというのです。
ハイデルベルク信仰問答の第一問は、「あなたにとって、生きている時も、死ぬ時にも唯一の慰めは何ですか。ただ、それだけを知っていれば、どんな冒険にも乗り出すことができる。その力はなにか」「わたしの肉体も魂も全存在が、イエス・キリストのものになっている」とあります。ヨハネ福音書13章7節に、「イエスは答えて、『わたしがしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる。』」とあります。イエスは私どもを、ご自身のものにするために、十字架についてくださったのです。言い換えれば、イエスは、わたしたちが神を信じて冒険的な生き方をするために、十字架の苦難と試練を引き受けてくださったのです。シモン・ペトロが「しかし、お言葉ですから、網を降ろして見ましょう。」〈ルカ福音書5:5〉と従ったように、神の支配と祝福を信じもう一度立ち上がりましょう。